ちくま学芸文庫

『現代語訳 応仁記』本文試し読み

11月刊行のちくま学芸文庫『現代語訳 応仁記』(志村有弘訳)より、『応仁記』冒頭部分を公開いたします。応仁の乱終結からほどなくして書かれたとされる軍記物の世界を、どうぞお楽しみください。

乱前御晴のこと

 応仁丁亥ひのといの年(応仁元年、1467)、天下は大いに動乱し、それから永く五畿七道がことごとく乱れた。その起こりをたずねてみると、尊氏将軍から七代目の将軍義政公が、天下の成敗をしっかりとした管領にまかせず、ただ御台所みだいどころ(日野富子のこと)、あるいは香樹院、あるいは春日局などという、理非をわきまえない、公事・政道を存ぜぬ若い女房・比丘尼たちの考えで、(政治は)酒宴・淫楽のまぎれにとりきめられていた。
 また、伊勢守貞親や鹿苑院の蔭凉軒などが評定したので、当然与えなければならぬ所領を、それまで贔屓ひいき賄賂わいろによって訴人に理屈をつけ、また奉行所より(訴人ではない)もとのあるじが安堵してもらうと、御台所より恩賞が与えられるというありさまであった。
 このように、目茶苦茶なありさまであったから、畠山の両家(義就・政長)も、文安元年(1444)甲子きのえねより今年にいたるまで二十四年のあいだに、(将軍家から)互いに勘当をこうむったことは三度、赦免されたことは三度に及んだ。(両者には)なんの不義もなく、またなんの忠義もなかった。それで、京の童のことわざに、「勘当にとがなく、赦免に忠なし」と笑った。
 また、武衛ぶえい両家(斯波義敏・義廉)がわずか二十年のあいだに改動(職や地位を改め動かすこと)されたことは二度である。これは、伊勢守貞親が色を好み婬着し、贔屓したためである。これに加えて、大乱の起こる瑞相であったのであろうか、公家・武家共に大いにおごり、都鄙とひ遠境の人民までも華麗さを好み、諸家は派手にふるまい、万民の窮状は言語道断のことであった。
 これによって、万民は憂悲苦悩して、夏の時代の民が桀王の妄悪を恨んで、「この 日はいつか滅びるだろう。我は汝と共に滅びよう」と歌ったように、もしこのとき忠 臣がいたならば、どうしてこれをいさ め申さないのだろうか。しかしながら、ただ「天下は破れば破れよ、世間は滅びるならば滅びよ。人はどうであれ、我が身さえ富貴ならば、他よりは一段と華やかに振る舞おう」という状態になっていった。
 だから、たとえば五、六年のあいだに、一度の晴の儀式を行なうのでさえも諸家にとってゆゆしき大儀であるのに、この間続いて九度も執り行なわれたのであった。まず一番目に将軍家の大将の拝賀の準備、二番目に寛正五年(1464)三月に行われた観世の河原猿楽、三番目に同年七月の後土御門院の御即位、四番目に同六年三月に開かれた花頂若王子大原野の花見の会、五番目に同八月八幡の上卿しょうけい、六番目に同年九月の春日御社参、七番目に同十二月の大甞会、八番目に文正元年(一四六六)三月の伊勢御参宮、九番目に花の御幸である。
 だから花御覧の準備は、百味百菓で作り、御前の御相伴しょうばん衆の道筋をば金でもってひらき、御供衆の道筋をば沈香で削り、金で作った逆鰐口わにぐち(神殿・仏殿の軒に釣る鳴り物。ふつう、銅製)を掛けるというありさまであった。このようにして、おのおのが装いをこらそうと奔走したものだから、皆所領を質に置き、財宝を売り払ってこのことに勤めた。諸国の土着の民に課役をかけ、段銭だんせん(即位・内裏の修理・将軍宣下・道路の修理などの費用にあてるため、臨時に田地の段別に応じて一国単位に課した税金)棟別むなべつをきびしく催促したので、国々の名主・百姓は耕作することが不可能になった。田畑を捨てて乞食となり、足の向くままに苦しみ、さまようだけであった。
(その結果)すべての国の村里は大半が野原となってしまった。ああ、鹿苑院殿(足利 義満)の御代には倉役(室町時代、土倉・質屋に課した税)は四度であったのに、普広院 殿(足利義教)の御代になってからは、一年に十二カ度もかかったのであった。(とこ ろが)当御代(足利義政の時代)は(さらにきびしくなり)臨時の倉役といって、大甞会 のあった十一月は九度、十二月は八度であった。
 また、この御代には、借銭を踏みつぶそうとして、前代未聞の徳政(売買・貸借の契約を破棄すること。室町時代には、窮乏した土民が土一揆を起こして、幕府に徳政発布をしばしば強要した)ということが十三度も行われたので、倉方も地下方(一般の農民や庶民)となって、すべて絶え果ててしまった。
 だから、大乱の起こることを天があらかじめ示されたものか、寛正六年(1465)九月十三日夜の十時ごろ、南西から北東へ光る物が飛び渡った。天地が鳴動して突然折れ割れ、世界が震裂するかと思われた。「ああ、あきれたことだ。異朝の周(中国古代の王朝)の時代にすでに滅びようとして、房星(二十八宿の一つ)が飛んで七廟の祭が衰えたことを示し、周室が傾いた状況と同じだ」と諸人は心に思いながらも、(役人の目をはばかって)はっきりと言う人もいなかった。
 また、翌年の文正(1466)と改元した九月十三日の同じ時刻に(房星が)もとの方へ飛び帰ったのは不思議であった。天狗流星というものであったとかいうことである。それでは仏の致したわざであったのだろう。
 天狗の落とし文ということを書いて歩く者もいた。「噓だ」と笑ったけれども、(書かれてあった内容が)おおよそ当たっていたのは不思議であった。その中に「徹書記、宗 砌そうぜい、音阿弥、禅空は近日こちらに来るだろう」と書いてあったが、果たして皆その年に死んだのであった。『中庸』に「国家がまさに滅びようとするとき、必ず妖孽ようげつ がある」(孽は災い)という。妖とは、草物の類の妖をいい、蟲豸ちゅうちの類をという。妖の災いさえ大変恐ろしいのに、まして天変の恐ろしさはいうまでもない。殷の宗王は徳を修め、雊雉こうちの災い(災異の前兆)を消し、宗景帝は善言で熒惑けいこくの災い(兵乱の前兆)をとどめた。先賢は皆このようであったという。

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