ちくま学芸文庫

葉隠祭り
山本常朝・田代陣基『定本 葉隠〔全訳注〕』佐藤正英校訂・吉田真樹監訳注

PR誌『ちくま』11月号より『定本 葉隠〔全訳注〕』の訳者、吉田真樹氏のエッセイを掲載いたします。『葉隠』で使われている敬語から、武士の精神をいかに読み取るか。渾身の訳業の一端をお楽しみください。

 この秋から年末にかけて、『定本 葉隠〔全訳注〕』上・中・下(ちくま学芸文庫)の三冊を上梓する。ここまで漕ぎ着けるのに、永い年月がかかった。各担当者・協力者に心から感謝したい。
 本書は『葉隠』諸本の中で最も優れた内容をもつ小山本を初めて翻刻し、これまでのスタンダードであった岩波の日本思想大系本を校訂された佐藤正英東京大学名誉教授(私のもう一人の師匠)による新校訂を加えて、読みやすい本文を提示した。
 訳注は、吉田・岡田大助(江戸川大学准教授・私の弟分)・上野太祐(神奈川大学非常勤講師・日本倫理学会和辻賞受賞者)・板東洋介(皇學館大学准教授・同和辻賞受賞者)・木村純二(弘前大学教授・私の同期)・筒井ともか(静岡県立高校教員・私の教え子)で分担し、注によって従来の理解を多く更新するとともに、現代語訳によって空前の精密な訳出を実現した。このチームは多くをもたらしてくれた。それぞれに得意分野があるとともに我が強く、ふだんは我慢しているがたまに爆発したりする。検討会・調整会を何度も重ねた仲間である。

 ここではこだわりの現代語訳のごく一端を紹介しよう。『葉隠』が当時の読者に問い掛けた最も重要な問いは、「武道の大意は何と御心得候哉」(聞書一の1)というものであった。従来の訳と本書の訳を並べて掲げてみる。
〇相良亨訳(1969年1月)
 「武道の根本を何と心得ておられるか」
〇奈良本辰也訳(1969年12月)
 「武士道の根本を何と心得ているか」
〇松永義弘訳(1980年7月)
 「武士道の根本は、なんと思うか」
〇水野聡訳(2006年7月)
 「武道の大意を何と心得る」
〇菅野覚明・栗原剛他訳(2017年9月)
 「武士道の根本は何であると心得ておられるか」(底本に「御」なし)
◎吉田真樹訳(2017年10月)
 「武道の本質は何とお心得でありますか」

 これらの違いは何か。一言でいえば、武士の敬語をどう捉え、訳出しているかである。本書以前では、相良訳だけが尊敬語「御」を代替的に「おられる」と訳出し得ている。菅野・栗原他訳が底本に「御」がないにもかかわらず「おられる」と訳すのは、無意識裡に「候」を代替的に訳したものらしい(他の箇所の「候」は訳していないから)。相良(私の師匠の師匠)、菅野(私の師匠)、栗原(私の弟分)、そして我々ちくま学芸文庫葉隠チームは、同じ解釈学的倫理学の学派に属する者であり、テキストを重んじる伝統を背負っている。9月に出たK社学術文庫チームとは、それぞれ良い意味で複雑な人間関係を築いていて、仲が良い。そのため会えばわざと『葉隠』を話題にし、お互いの情報漏洩を誘う光景が日本各地で展開されたのだった(特に刊行日情報)。9(K社上巻),10,11,12月の刊行は何にせよめでたい。この期間、葉隠祭りである。
 紙幅が尽きそうなので、詳しくは上巻解説に譲るが、右に挙げた本書の訳が唯一「候」を正しく訳出している点に注目してほしい。「候」を含めた敬語が、武士にとって極めて重要なものであったことに注意する必要がある。「御」は相手の武士に対する敬意、「候」は己と相手が相まみえるこの場をそれにふさわしいものにするための敬意を示す。平時でも、刀を下げた武士同士は場を成立させるために畏まり、お互いに敬意を払うことによって適切な距離を取り合わなければ、斬り・斬られる危険がある。敬語は武士にとっての生命線だったのである。
 さらに、この「御」・「候」は「おぬしも武士であるのならば、当然お心得でありましょうが」という圧迫と挑発の含意をもち、武士の敬語の恐ろしさを垣間見せる。本書により『葉隠』の敬語が正しく認識されるようになることを願っている。