単行本

暗闇をゆきかう言葉たち
サクラ・ヒロ『タンゴ・イン・ザ・ダーク』書評

妻にもう一度会いたい。地下室に引きこもった妻とそれを追う夫の不思議なセッションを描いた第33回太宰治賞受賞作『タンゴ・イン・ザ・ダーク』。 この企みに満ちた新鋭のデビュー作を、円城塔さんが緻密に紐解きます。PR誌『ちくま』12月号より転載します。

 暗闇の中、音楽だけが聞こえてくる。しかもかつて、二人で合奏した曲が。
 明かりをつければ、そこには奏者がいるはずである。しかしまたこうも考えられる。明かりをつけても、そこにはもう誰もいないし、再生用の機械の類も見当たらない。  
  こうした事態を一足跳びに、不合理、もしくは幻想と決めつけてしまうのは性急であり、人間とは記憶の生き物である。今自分が体験しているものは、過去の記憶でもありうる。目の前の明かりをつけたところで、記憶の中の暗闇が照らしだされるという道理はないのだ。  
 もっとも通常、現実と記憶は混同されない。たとえ我々が現在体験しているものが、自分の感覚器官を経て処理された「少し前の過去」であったとしても。  
 夜空に浮かぶ星たちは、今そこで輝いている。しかしそれは数年、あるいは何十万年前の過去の姿でもあり、日常、そこに断絶はない。  
 主人公の妻は、あるときから地下室にこもり、姿を見せなくなってしまった。  
 全く外に出ないというわけではなくて、家に帰るといつも同じようにして、夕食がきちんと用意されていたりする。  
 会話を拒むわけでもなくて、電話かLINEで連絡はとれる。機嫌が悪いわけでもない。ただ顔に火傷をしてしまったので見られたくない、ということを言う。  
 言う、といってももうすでに、それが伝えられるのは、LINEのメッセージによってである。  
 ちなみに人は一般的に、自分が記憶している情報が「どんな手段で伝えられたか」を記憶しない。短期的には覚えていても、やがて区別がつかなくなる。小説が何人称のどんな時制で書かれていたか、登場人物たちが、「どんな手段で会話していたか」を記憶することは実はけっこう困難なのだ。ためしにこの小説を読み終わったあとで、主人公と妻の会話のどのくらいの部分がLINEで電話で、あるいは直接対面して行われていたか、一度ゆっくり思いかえして、それから確認してみるとよい。  
 数日すればでてくるかと思われた妻は、いつまでたってもその姿を現さない。現さないが、会話は特に変わらず続く。地下室というのはやや特殊だが、単身赴任でしばらく顔をあわせぬ夫婦と思えば、そう突飛な状況でもない。  
 さてここに、人間は会話の手段を記憶しない、という傾向を当てはめると、自分は妻に実際に会っていたのかどうなのか、記憶の中であやふやになるという事態が生まれる。視覚的な記憶は(会っていないのだから当然)持たないのだが、(文字情報を通じて)会話をした記憶だけはある。視覚的な情報がないという記憶はそのまま暗闇の記憶となりうる。  
 と、この書評は実は、この小説の不思議な読後感がどこから生まれているのかを、それこそ暗闇の中で手探りするようにして書いており、指先に触れた考えはこうである。  
暗闇にとざされた地下室の中にいるのは、主人公の妻だけではなく、小説一般というものは暗闇の中にとざされている。だってそこには文字しかないのだ。LINEの画面と紙面という差こそあるにせよ。我々と小説の間には文字があるだけであり、向こう側は暗闇である。  
 文字によって伝達された光景は、情報処理の結果生まれた光景であり、小説そのものの姿ではない。しかしあなたはその風景を、自分が実際に見た光景として記憶することさえあるかもしれない。  
 この小説が積極的に行うのはそうした、認知系への割り込みである。それはとても奇妙なことに、言語を用いた非言語的な伝達を実現する。その種の操作にすぐれたものに音楽があり、本作で音楽が重要な役目を果たすのはそのゆえではないかとわたしは思う。