江戸時代の町奉行は、ある程度、顔をもった存在としてイメージしやすいが、僕のなかでは勘定奉行・勘定所は何となく宙に浮いたような印象しかなかった。それが、本書を読んで、人の顔を持つ存在として、人が動かす組織として立ち現れてきた。
第一・二章では、勘定奉行とその指揮下の勘定所の幕政上の役割・位置づけと、組織としての特徴が説明される。それを前提に、第三~七章で、時期を追って幕府財政の状況とそれに対応しようとした勘定奉行・勘定所の諸政策が追究されている。
勘定奉行と勘定所は、幕府の財政だけでなく、幕府領の支配・農政や、街道などの交通の管理、さらに勘定所独自で、また評定所の一員として裁判を担当するなど、広範な業務を担う重要な役職であり、役所だった。享保(きょうほう)改革で、四人の勘定奉行が財政と農政を担当する勝手方(かってかた)、裁判を担当する公事方(くじかた)に分けられるとともに、勘定所も勘定・支配勘定などの中核的な職員数が大幅に増員され、新規の役職も設置されるなどして肥大化していった。
勘定奉行は旗本が就任する役職だったが、本書では、その昇進ルートが二つあったことに注目されている。メインは、番方(ばんかた)の旗本が目付(めつけ)に転出し、長崎奉行などを経て勘定奉行となる「目付コース」(キャリアコース)であり、これが半数を超える。もう一つは、勘定所内部を含む財政関係の役職を経て昇進するもので、全体の一割ほどは勘定→勘定組頭(がしら)(→勘定吟味(ぎんみ)役)という階梯(かいてい)を経て、内部昇進する「叩き上げコース」だった。後者のような御家人や下層旗本から累進していくあり方は勘定所だけに見られる独特のものだったという。
五代将軍徳川綱吉(つなよし)の時代になると幕府財政は赤字に転落し、それを貨幣改鋳によって対処しようとしたのが、勘定奉行荻原重秀(おぎわらしげひで)ら積極財政派であった(第三章)。これを転換して、貨幣の品位を戻すとともに、財政支出を削減する緊縮策と年貢収入を増やす開発・増徴策で対処しようとしたのが、享保改革であり、それを主導したのが、勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)であった(第四章)。
それに続く田沼意次(たぬまおきつぐ)時代は、支出を削減する緊縮策は継続するが、収入増加策(新たな財源探し)が図られた時代であった(第五章)。そこでは、新たな生産品や生業に運上(うんじょう)や冥加(みょうが)金を課し、御用金の運用など様々な模索が行われたが、そこに目を付け、新たな増収策を提案する「山師」のような者が多く現れたのである。
明和(めいわ)年間(一七六四~七二)には、蓄積金が最大に達したが、天明(てんめい)飢饉を経て財政危機が深まった。寛政(かんせい)改革は、これに財政緊縮策で対処しようとしたが、打開できず、文政(ぶんせい)期から幕末まで悪貨への改鋳に依存する末期的な状態に陥っていく様相が叙述される(第六・七章)。
このような幕府財政の推移に反映した時代状況が、財政政策の担い手たる勘定奉行に即してビビッドに描かれている。その際、時代を表すような政策を主導した荻原重秀や神尾春央が「叩き上げコース」で昇進した人物だった点が興味深い。本書で取り上げられたなかには、「目付コース」の昇進をとげた遠山景晋(とおやまかげみち)も含まれていたが、田沼時代を象徴する存在として取り上げられた小野一吉(おのくによし)や松本秀持(まつもとひでもち)も、また幕末期に活躍した川路聖謨(かわじとしあきら)らも「叩き上げコース」であった。勘定奉行・勘定所の特質と時代状況が結び合っていることが印象深い。
「山師」的な人物が多く出てきた一八世紀後半(田沼時代)は、僕がフィールドとしている大坂の都市社会を見ていてもスケールを小さくした同質の動向を見出すことができる。例えば、明和(めいわ)八(一七七一)年に大坂の奉公人の口入(くちいれ)業者の取締りが不十分で、主人も奉公人も迷惑しているからと、自らを「奉公人肝煎惣代(きもいりそうだい)」に任じてほしいと江戸の町人が出願している。取締りを標榜するとともに、手数料収入を独占することをねらったものである。幕府財政をめぐる方向性と社会状況が照応していて興味深い。いろいろなことを考えさせてくれる一冊である。
(つかだ・たかし 大阪市立大学教授)
ちくま新書
勘定奉行の江戸時代
藤田覚著