外国人が描いた幕末日本の公衆浴場。現代の私たちから見たらとても不思議な一枚の絵から、日本人の「羞恥心」の変遷に迫る。5月刊のちくま文庫、中野明さんの『裸はいつから恥ずかしくなったか』より序章を公開します。
百五十年前の混浴図
現代の日本人には共通する裸体観がある。たとえば、公衆の面前で裸体をさらすのは不道徳である、というのもそのひとつである。また、他人に自分の裸体を見られると恥ずかしい、という気持ち、すなわち羞恥の感情が自然と起こるのもその一例である。さらに、異性の裸体から強い性的メッセージを感じ取る。つまり異性の裸体とセックスを結びつけてしまう傾向が強い。これも現代の日本人の裸体観の一般的特徴と言えよう。
では、こうした裸体に対する常識的な頭で図序-1を見てもらいたい。この絵のタイトルは「下田の公衆浴場」という。今から百五十数年前の一八五四(安政元)年(1)に描かれた。しばしば取り上げられる絵なので、見たことがあるという人も多いはずである。
しかし、見れば見るほど不思議な絵である。
公衆浴場の中には、入浴者が全部で二十二人いる。男性が九名、女性が十名である。性別を判別できない人物が三名いる。入浴者はおおよそ四つのグループに分かれている。まず、画面右奥には、女性五名の群れがある。幅広の木桶だろうか、その周りに四名がしゃがみ、桶を持った一人だけがきりりと立つ。その足下の女は、膝をなかば開いて下腹部を見つめる。右手の女性がその様子を横目で覗きながら何か語っているかのようにも見える。
一方、画面中央部では、四名の男性と五名の女性が溝を境に入り交じっている。右端の男は桶を持って立ち上がり、画面の外へと出て行く様子である。床に桶を置きしゃがもうとする男、桶に手を入れて足を半ばのばしている男もいる。このグループの中で最も目立っているのが、最前列でしゃがむグラマーな女性である。足を抱え込み、布状のものですねの辺りを拭っているようである。その背後には、背を向けてしゃがむ女や、正座する女、半ば立ち上がる女がいる。
建物の奥に視線を移すと、どういうわけか破風(はふ)をもつ建造物が目に入る。破風とは、屋根の妻側に取り付けられた山形の板やその付属物の総称である。破風の下部は内側への入り口になっているようである。その中へ髷結いの男がかがみながら入ろうとしている。さらに三名は入り口の中に入った後の状態で尻と足だけが見えている。そのため性別は判然としない。
最後のグループは、画面左手の脱衣場とおぼしき場所にいる一群である。右手の男は
床に尻をつき、洗い場の方をぼんやり眺めている。またその横の男は、前を隠すことも
なく洗い場に向かって腕組みしている。脱衣棚の前では、風呂から上がるところなのか、
これから入浴するところなのか不明ながら、裸の男が着物を着た男と雑談を交わしてい
る。
以上がこの絵の概観である。絵のタイトルが示すように、これは公衆浴場、すなわち関東風に言うならば湯屋か銭湯、関西風に言うと風呂屋を描いたものである。そして、現在の我々が街の銭湯とか、あるいはスーパー銭湯などを想起する時、この絵とのギャップの大きさにショックを受ける。
まず、公衆浴場なのに男女混浴だということである。しかも、男女ともに異性の前で裸体をさらすことに何の恥じらいもない。脱衣場を背に腕組みする男の堂々とした態度など、その典型と言えよう。また、現代の混浴温泉にありがちな、あわよくば女性の裸をこの眼に焼き付けてやろうという、男性陣のさもしさは微塵も感じられない。男性の視線を意識しつつ見えそうで見えない程度に裸体を誇示する女性もいない。互いに会話を交わしている人物を別にすると、いずれも自分の世界に浸っているかの様子である。相手の裸体をじろじろ眺める者は皆無である。視線は宙を舞う。障害物として他人の裸体があったとしても、視線が肉体上で止まることはない。それは肉体を通り越す。
しかし、現代の常識では考えられないこの裸体に対する無関心は何なのか。いまから約百五十年前とはいえ、こんな世界が本当にこの日本に存在したのだろうか。
下田公衆浴場図の由来
右にふれた絵(以後、下田公衆浴場図と呼ぶ)は、一八五四(安政元)年に描かれたと先に書いた。この年代にピンとくる人もいるはずである。実はこの前年に、アメリカ合衆国大統領フィルモアからの親書を携えたペリー艦隊が日本に来航し、久里浜に上陸している。そして五四年二月(西暦月、以下同様)、ペリーはこの親書に対する返事を受け取りに、再び日本へやってくる。その結果この年に、日本とアメリカの間で日米和親条約が締結される。
日本を離れて本国に戻ったペリーは、日本遠征の記録を公式文書として合衆国政府に提出した。『合衆国海軍提督M・C・ペリーの指揮下における一八五二年、一八五三年および一八五四年に実施した中国海および日本へのアメリカ艦隊遠征記』(2)という、大変長いタイトルの報告書がそれである(以後『ペリー艦隊日本遠征記』と呼ぶ)。この報告書はA4で数十ページなどといった簡単な体裁のものではない。サイズこそA4を一回り大きくしたものながら、全三巻からなり各巻のページ数は四百ページを超えるという代物である。また、この報告書はテキストのみではなく、多数の図版も添付されている。実はその中の一枚が、先に掲げた下田公衆浴場図に他ならない。
絵の作者もわかっている。ドイツ人画家ヴィルヘルム・ハイネである。ハイネは、一八二七年にドイツのドレスデンに生まれ、長じてドレスデンの王立芸術学院で学んだ。ドレスデン蜂起に参加するも、革命に挫折して一八四九年にアメリカへ移住する。画才が認められたハイネは、外交官という肩書きで中央アメリカに派遣され、現地の風土や原住民を写生している。そして、ペリーの日本遠征に随行画家として同行することになったのである。
当時の海外遠征隊は、現地の記録を取るのに画家を同伴するのがならわしになっていた。そんな彼らのことを随行画家と呼ぶ。しかも、ハイネは随行画家として三度も日本にやってきている。一度目と二度目がペリー艦隊の一員、三度目は一八六〇年にプロイセンが派遣した遣日使節団の一員としてである。図序ー2はそのときの使節団一行を描いたものである(3)。中段左端にいるあごひげをはやし半ば夢見る様子で首をかしげているのがヴィルヘルム・ハイネである。
ペリー艦隊の主力随行画家として活躍したハイネが、その日本遠征で持ち帰ったスケッチ画は四百枚にも及んだという。そこで再び、ハイネが描き、ペリーの公式報告書に掲載された下田公衆浴場図を見てもらいたい。この絵をじっくり眺めると、すでに何度も見たという人も含め多くの人が、改めて一種の奇妙さとある種の居心地の悪さを覚えるに違いない。そして、次のような思いを強くするはずである。このハイネの絵は、幕末当時の公衆浴場、すなわちいまでいう銭湯を本当に正確に描写したものなのか、と。
公共の場である浴場で、男女混浴がこうも堂々と行われている光景は、現代の常識では考えられない、まるで別世界での出来事のように映る。つまり、現代の常識に照らせば、いくら今から百五十年前の江戸時代だとはいえ、公衆浴場での混浴は日本ではあり得ない──。直観的に考えると、このような結論に達するのが一般的だと思う。
では、もう少し論理的に考えてみよう。現代では公衆浴場法および各都道府県の条例により、公衆浴場での混浴は原則禁止されている。そのため、仮に現代の銭湯で、ハイネが描いたような行為が堂々と行われたならば、銭湯の亭主の手が後ろに回るのは必至である。一方、幕末当時に現代のような法規があるはずもない。しかし江戸時代といえば、「男女七歳にして席をおなじうせず」という有名な言葉があるように、物心がついて以来結婚するまで、家族以外の女性と口をきいたことのない武士もいた。要するに江戸時代は、混浴どころか、武士では男女が言葉すら交わすことも憚られた時代、男女の別が厳しく問われた時代ではなかったか。そんな時代に、これほど開放的に混浴が行われていたなど、とうてい考えられない、という結論に達する。これが下田公衆浴場図に対して、やや論理的に考察した際の一般的な帰結ではないか。
この絵は事実を描いているのか?
そうすると、にわかに次のような推測が頭をもたげてくる。下田公衆浴場図は、合衆国政府に提出された公式報告書に添付されたものだから、ハイネがまったくの想像でこの絵を描いたとは考えにくい。何らかの事実を根拠にしたとみるべきである。してみると、どこか特殊な浴場、たとえば廓(くるわ)などに併設する風呂を、公衆浴として描いたとも考えられよう。
下田公衆浴場図に対して一旦このような疑問をもつと、描かれた光景の不自然さが次々と気になってくる。再度絵を注意深く見ると、混浴はさておき、公衆浴場といいながら、あるはずのものがない。そもそも、浴場にとって最も肝心な浴槽が見あたらない。これでは公衆浴場の体をなしていないと言わざるを得ない。また、画面奥にある破風をもつ建造物は一体何を意味しているのか。玄関ならいざ知らず、そもそも公衆浴場の中になぜこのような造作が必要なのか。
また百歩ゆずって、ハイネが一般的な公衆浴場を描いたとしよう。しかし、下田で混浴だからといって日本全国でもそうだったとは限らない。さらに百歩ゆずって、混浴が当時の日本全国で日常的に行われていたとすると、別の思いが頭をよぎる。下田公衆浴場図に描かれた入浴者は、異性の裸をまったく意識していない。とすると、当時の日本人は、裸に対する意識が現代とはまったく異なっていたのではないかという疑いである。しかし、そんなことが現実にあり得るのだろうか。
本書では、下田公衆浴場図を出発点に、これらの疑問についてじっくり考えたい。その上で、公衆の面前で裸体をさらすことが不道徳だとする現代の日本人の常識が、いかに形成されたのかを明らかにする。
(1) 厳密には嘉永七年。嘉永七年は旧暦の十一月二十六日まで。翌二十七日より元号が「安政」に変わる。
(2) Francis L. Hawks'Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan'(1856, A.O.P.Nicholson)
(3) グスターフ・シュピース『シュピースのプロシア日本遠征記』(1934、奥川書房)口絵。