ちくま新書

ベルエポックの光と闇

第1次世界大戦の前、イギリスを中心にヨーロッパは空前の繁栄を誇っていました。その栄華はどのようなメカニズムで、誰の犠牲の上に成り立っていたのか? 「昨日の世界」の実相に迫る、6月刊『ヨーロッパ 繁栄の19世紀史』の序章を公開いたします。

昨日の世界
 第1次世界大戦勃発前の約100年間、ヨーロッパは、「ベルエポック」と呼ばれる全盛期を迎えていた。
 その様子を描いた最良の作品として、1881年にオーストリアの首都ウィーンで生まれたユダヤ人の作家シュテファン・ツヴァイクが、1940年、逃亡先のアメリカで書き上げた『昨日の世界』(みすず書房)がある。同書から、ヨーロッパが安定していた頃、第1次世界大戦前の「ベルエポック」の姿が見てとれる。
 ツヴァイクはいう。「私が育った第一次世界大戦以前の時代を言い表すべき手頃な公式を見つけようとするならば、それを安定の黄金時代であったと呼べば、おそらくいちばん的確ではあるまいか」(同書、第1巻、15頁)
 ツヴァイクは、ウィーンでの経験にもとづいてこう表現したわけであるが、それはおお
むね、この時代の西欧全体にあてはまる。
ツヴァイクは、こうもいう。

 年下の友人たちと話をしていて、第一次世界大戦以前の時代のエピソードを語ると、いつでも彼らが驚いて質問するので、私にとってはまだ自明な現実を意味していることの実に多くが、彼らにとってはすでに歴史上のこととなって想像もつかないものとなっている、ということに気づくのである、そして私の心のなかのひそかな本能は、それももっともなことだと思う。われわれの今日とわれわれの昨日や一昨日とのあいだのすべての橋は、壊されてしまったのだ。 (同書、第1巻、6頁)

 ツヴァイクにとって自明であったことが、のちの世代にはそうではなくなった。そこに
は大きな断絶がある。すべての橋は壊された。第1次世界大戦以前の「ベルエポック」は、永遠に失われてしまったのだ。
 ツヴァイクは、『昨日の世界』を書き上げた2年後、1942年に、第2次世界大戦の絶望の中、異国ブラジルで自殺した。彼の記憶の中のヨーロッパと現実のヨーロッパは、大きくかけはなれてしまったのである。

ベルエポックとは何か
 いま述べた「ベルエポック」という言葉であるが、これは「良き時代」を意味し、おお
むね19世紀のヨーロッパの最盛期、ナポレオン戦争が終結した1815年から第1次世界大戦勃発(1914年)までのおよそ100年間を指す。
 この時代の最大の特徴は、ヨーロッパ諸国がヨーロッパ外世界に進出し、次々に植民地
を建設したことにある。ヨーロッパが世界の支配者になったのである。ほかにも、この繁
栄を誇った時代のヨーロッパでは、次のような変化がおこった。

・民主主義政治が発展した。
・イタリアやドイツの統一により「国民国家」が当然のものとなり、国家の理想形と考え
られるようになった。
・生活水準が上昇し、砂糖・コーヒーなどを消費するようになり、また余暇の時間が増大
した。
・市民の生活が豊かになったので、社会が安定した。

 このようにベルエポックとは、ヨーロッパ人にとっては、すべてがバラ色に見える時代
であったのだ。

被植民地人にとってのベルエポック
 しかし、いうまでもなく、この第一次世界大戦前の時代は、ヨーロッパ人にとって「良
き時代」だったにすぎない。
 ヨーロッパ以外の地域に住む人々の多くにとっては、この時代は「良き時代」どころか、「悪しき時代」であったのだ。
 この時代は、ヨーロッパが豊かになる一方で、世界の多くの地域は、ヨーロッパにより
植民地化された。そして、ヨーロッパ人にとっては、ヨーロッパの価値観こそが重要であ
り、被植民地人(先住民)の価値観は、一顧だにされなかった。ヨーロッパ人は、自分た
ちの価値観こそが普遍的なものだと信じて疑わず、自分たちで世界を好きなように分割し
て良いと考えていたのである。
 「ベルエポック」は、ヨーロッパ(のちにはヨーロッパを母体とするアメリカ)の影響が全世界で強く感じられた時代であり、ヨーロッパの全盛期であった。しかし、それは他の地域の犠牲の上に成り立っていた。「ベルエポック」というと華やかな光のイメージを感じる方が多いと思うが、その陰には大きな闇が広がっていたのである。
 詳しくは第5章で述べるが、ヨーロッパ人は、被植民地人を文明化することが使命であ
ると説いた(「文明化の使命〔Civilizing mission〕」)。ところがヨーロッパは、自国では議会制民主主義を発達させたにもかかわらず、植民地にそれを築こうともしなかったし、また工業を発展させようともしなかった。
 むしろヨーロッパは、そうして植民地を収奪することでベルエポックを迎えることがで
きたのである。

ヨーロッパが圧倒的に優位な関係
 本書の目的の一つは、ヨーロッパと植民地の関係が、ヨーロッパ側に圧倒的に有利に働
き、それが究極的にはイギリスの(経済的な)ヘゲモニーに大きく貢献し依存したことを
示す点にある。植民地との結びつきを強めたヨーロッパ大陸諸国の経済成長は、イギリス
の経済力を弱めたのではなく、むしろ大きく強め、イギリスがヘゲモニー国家になること
に大きく寄与したのである。
 1840年に起こったアヘン戦争でイギリスは中国に大勝し、1842年に結んだ講和条約の南京条約により、1757年以降広州にかぎられていた中国の外国との貿易港に、福州、廈門(アモイ)、寧波(ニンポー)、上海が加えられた。これ以降、中国は欧米の列強諸国に蹂躙されることになった。
 また、これはヨーロッパではなくヨーロッパ移民が支配したアメリカの事例であるが、アメリカ船が1853年に日本の浦賀に来港し、大砲で威嚇して開港を迫り、翌年日本は開港させられることになった。これは、明らかに脅迫行為であったにもかかわらず、この当時、それを批判することは不可能であった。それどころか不思議なことに、現在も批判
されないのである。
 日本は1858年、不平等条約である日米修好通商条約を結んだ。アジアなど欧米以外の地域の国々が欧米諸国と不平等条約を結ばされたことは、欧米人の論理では、「自主的」に不平等条約を結んだということになる。彼らの論理に従うなら、「自主的」に結んだのだから、その条約は合法ということである。もちろん本当は「自主的」などではなく、その後ろには巨大な軍事力をちらつかせた脅迫行為があった。しかし「脅迫行為による条約の締結は無効だ」などと言える時代ではなかった。
 欧米列強は、軍事力によって、世界を分割していった。たとえばイギリスによってイン
ド亜大陸が統一され、こんにちの意味でのインドという国ができあがった。中東の国境線
は、ヨーロッパ列強の都合の良いように設定された(本書で扱う時代の最後の頃になると、日本も少しではあるが世界の分割に加わった)。現代社会の混乱を招いた多くの事柄の種が、ヨーロッパ人たちによってこの時代に撒かれたのである。
 ただし、ヨーロッパないし欧米を範として仰ぎ見る気持ちが、世界の人々にあったこと
も事実である。欧米とアジアの諸地域の生活水準の差は、絶望的なまでに大きかったから
だ。欧米の規範が世界的な規範となり、それに反発する気持ちを抱きつつも、その一方で
「やはり欧米のようになりたい」と思っていた人々は、決して少なくはなかったはずであ
る。
 本書では、このような問題意識のもと、「繁栄の19世紀史」と銘打っているが、少し広い射程で1815〜1914年を中心とした時代を扱う。この時代を「ベルエポック=ヨーロッパ全盛期」として扱い、ヨーロッパが他地域を収奪した時代として描きたい。ヨーロッパはなぜ、どのようにしてベルエポックを迎え、それは、他地域にとってどういう点で負の意味をもったのか、その光と闇を論じたいのである(なお、ヨーロッパ的な思想が良い意味でも悪い意味でも世界を席巻したということについては、拙著『ヨーロッパ覇権史』を参照されたい)。

第一次世界大戦と落ちぶれたヨーロッパ
 このヨーロッパがもっとも輝いた時代は、前述のとおり、第1次世界大戦によって終焉を迎えた。
 これは、1914年6月28日、オーストリアの皇位継承者であったフランツ= フェルディナント大公夫妻が、ボスニアの首都サラィエヴォを訪問中、セルビア人に暗殺されたことが引き金となり、そのちょうど1カ月後の7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告してはじまった戦争である。
 当初、この戦争はクリスマスまでには終わるだろうと思われていたが、現実には4年間も続いた。しかも、「第1次世界大戦」と呼ばれるほどに規模が拡大したこの戦争がヨー
ロッパに与えた被害ははなはだ大きなものであった。
 第1次世界大戦の戦死者は、約550万人である。第2次世界大戦の戦死者は、約5000万人であるので、それと比較すると、第1次世界大戦が世界全体におよぼした損害は、ずいぶん少なかったと感じられるかもしれない。
 だが、第1次世界大戦の主戦場はヨーロッパであり、第2次世界大戦のように世界中で
戦われたわけではなかった(そもそも第1次世界大戦は、たとえば日本では「欧州大戦」と呼ばれており、「世界を巻き込んだ戦争」という意識は薄かった)。そのためヨーロッパ人の戦死者数だけをみれば、第1次世界大戦の方が多かったといわれている。
 アメリカ合衆国が1917年に参戦しなければ、連合国は第1次世界大戦で勝利をにぎることはできなかったかもしれない。また、アメリカ合衆国は大戦前には債務国であったが大戦後は債権国になり、その政治力、経済力は大きく上昇し、ヨーロッパをしのぐほどになった。
 このような状況を考えるなら、第1次世界大戦の前後で、ヨーロッパのおかれた地位が
大きく変化したことが理解できよう。大戦後、ヨーロッパはもはや「世界を支配してい
る」とはいえなくなってしまったのである。
 第1次世界大戦後、ヨーロッパは落ちぶれた。それゆえ、ドイツの文化哲学者であるオスヴァルト・シュペングラーが、『西洋の没落』(1918・1922)という本を出版したのである。「ヨーロッパは没落した」という意識が、ヨーロッパの人々のあいだに強く感じられた。その喪失感たるや、大変大きかった。
 それに対して、自信をつけてきたのが、植民地であった。たとえばイギリスは、被植民地人(先住民)のインド人を兵士として使うほかなく、その見返りとしてインドに第1次世界大戦後の独立を約束した。しかしその約束をイギリスが反古にしたため、インドでは独立運動が激しくなった。
 イギリスにかぎらず、ヨーロッパは、経済的には工業製品の原料である第一次産品の輸入を植民地に大きく依存していた。だが、その植民地をうまくコントロールすることが難しくなったのである。
 こうしてヨーロッパは、第1次世界大戦により、きわめて不安定な世界になってしまった。ツヴァイクが述べていたように、安定した時代は、「昨日の世界」となってしまった
のである。

本書の構成
 19世紀のヨーロッパでは市民社会が形成された。工業が発展し、生活水準が上昇し、余暇が誕生した。だが、それらは、植民地が決してそのような発展をしないことが前提と
なっていた。
 19世紀は、グローバリゼーションが進展した時代であった。世界で多くの物資が流通し、多くの人々が移動した。それは、とりわけ蒸気船と電信によって成し遂げられた。こ
のことがもたらす利益をどこよりも大きく享受したのが、ヨーロッパ諸国であった。こう
いった問題関心のもと、本書は、以下のような構成をとる。
 第一章「一体化する世界」では、イギリスを中心とするグローバリゼーションの過程が
述べられる。1815〜1914年にヨーロッパによる植民地化が進み、世界は蒸気船や鉄道の建設によって縮まっていった。その過程で、ヨーロッパ、とくにイギリスが、世界の流通網を握った。そしてイギリスが世界経済の中心になり、アジア、アフリカ、南アメリカはヨーロッパに従属したのである。
 第二章は、「工業化と世界経済」である。ヨーロッパ大陸の工業化、さらにイギリスの資本輸出について論じ、ヨーロッパ世界が世界経済とどのように結びついていたのかが示される。
 第三章「労働する人々」では、この時期のヨーロッパが、「賃金が上昇すると労働時間が減少し、現在の生活水準を維持する」という反転労働供給の世界から離脱し、市場での労働を増やしたことが述べられる。ヨーロッパにヨーロッパ外世界から砂糖やコーヒーなどの消費財が流入し、その消費財を購入するために、ヨーロッパ人は市場での労働時間を増やした。ヨーロッパの人々の生活水準は上昇したが、それは、アジア、アフリカなど植民地の人々の犠牲によるものであった。
 第四章は、「余暇の誕生」と題される。この時期、労働時間が「可視化」されるようになると、労働者の時間は、労働時間と非労働時間に分かれ、後者の一部が余暇となった。ヨーロッパの労働者は、鉄道や蒸気船を使い、さまざまな場所で余暇をすごした。それは、労働者の生活水準が上昇し、また世界が縮まったために可能になった。ツーリズムは、ヨーロッパの帝国化と大きく関係していたのである。
 第五章は、「世界支配のあり方」である。メッテルニヒ体制は現状維持を原則としたが、ナポレオン戦争によってナショナリズムが高揚し、ラテンアメリカで植民地が独立し、ヨーロッパでは国民国家が成長していった。その一方で、ヨーロッパ経済は一体化していき、さらに植民地との紐帯を強めた。このときヨーロッパは、「文明化の使命」という言葉で、植民地の支配を正当化していった。さらに植民地と宗主国の経済的紐帯の強化は、イギリス経済の国際貿易決済機構の発展と大きく関連していた。
 本書では、ヨーロッパの市民社会の発展は前提条件として扱い、詳しく述べることはし
ない。むしろ市民社会が、どのようなメカニズムのもとで機能していたのかということを
前面に出して論じる。
 では、これから、19世紀のヨーロッパが放つ光の部分と、そのために生じた植民地世界の影の部分を見ていくことにしよう。