日本の近代戦史を紐解こうとすると、すぐにひとつの障害に突き当たる。
本書ではこれを〈昭和二十年(一九四五)八月十四日の日本政府や大本営が採った国策〉と表現している。これは「戦時記録の焼却」のことである。
敗戦前日、日本政府は戦犯の証拠とされる恐れのある文書について焼却する事を閣議決定した。同日より、陸軍省・参謀本部があった市ヶ谷台地で炎の中に次々と文書が投げ込まれ、その灰は地中に埋められた。同様の「焼却命令書」は、まさに飛び火のごとく全国に拡散、公的機関の敷地や河原などで数日間煙が立ち昇り続けたという。
こうして我が国は、戦時史料の多くを失った ―― 。
焼却された書面にはいったい何が書かれていたのか。それを推測するには、他国が保管している資料を調べるか、兵士の私的な記録を探すか、あるいは戦地から帰還した本人から話を聞くしか方法は無くなってしまった。
『戦場体験者』は、四十年以上もの月日を費やし、四千人もの戦争関係者から直接に話しを聞いてきた著者の戦争に対する考えを綴ったものである。取材範囲は広く、日中戦争体験者から、戦犯となった元兵士までも追跡。自身で決めたルールに従って丁寧な聞き取りを行っている。
著者は、本書の「はじめに」の中で「戦場」をこう定義づけている。
〈戦場とは、「敵」と「見方」の兵士がありったけの武器弾薬を用いて、「生命の交換を行う場」である。〉と。そして兵隊については、〈非日常空間に身を置くことで戦争の本質と対峙したのが兵隊経験者である。なにしろこの空間では、「一人でも多くの“敵”を殺害したら英雄になる」〉。これは、厳しくも的確な視点であると思う。
著者の足下にも及ばないのだが、私自身、報道記者として戦争の片鱗を取材する事がある。日本国内のいわゆる「戦争被害者」取材であれば、多くの証言者たちが口を開いてくれた。悲惨な経験、悲しみの追憶……。しかしこれが戦場での「加害者」側の立場となれば話は変わってくる。当事者たちは思い出したくもないし、話したくもないらしい。
本書にはその内情について、いくつかの事例が記されている。
〈戦後の日本社会は、一般兵士がその戦争体験を語ることを許さない暗黙の諒解をつくってきたのである。一般兵士たちに、「おまえたちが体験したことは銃後の国民に語ってはならない」という暗黙の強要が、とくに戦友会を通じて行われたといってもよかった〉。
戦友会の役割のひとつとしてこうもあった。〈昭和陸海軍の軍事正当化〉。
〈連隊、師団などの戦友会では、軍隊内の階級が生きていて、日中戦争、太平洋戦争の正当化が前提になっている……〉。
戦友会の内部についてなど、何も知らなかった私は、隠されていたこのシステムに驚かされた。どうやら、あの戦時記録の焼却と同じ精神が、戦友会の中では脈々と生き続けているらしいのだ。ならば「彼らの戦場」では、いったい何が起きていたのだろうか? 中国軍が、中国人の「村々に火を放ち……」と書かれた日中戦争時の寄稿文を読んだ保阪氏は、本当はこれは日本軍の仕業ではないのか? と、疑問を抱き、ある元兵士に尋ねてみた。すると彼はこう言ったという。「保阪君、私の所属と実名は決して書かないと約束してくれよ、子供や孫に迷惑がかかるからね」としたうえで、「私らもよく火をつけたよ」と告白したというのである。
帰国して、非日常空間から日常へと戻った元兵士たち。戦地での行いを口にする事を躊躇う理由のひとつに、家族や子孫への配慮があるのは想像できる。「お国のために」と命を賭けたはずのあの戦争に、実は誰にも話せない「現実」があったからだ。
放火された家から泣きながら出てきた中国人の子供。その子を上官は「始末しろ」と命じ、兵士は銃爪(ひきがね)を引いたと証言している。だが、戦後になると命じたはずの幹部は「始末しろとは言ったが、殺せとはいわなかった」と言い出す。この上官もまた事実を都合よく変質させ、あるいは記憶を書き換えることで己の責任から逃避したいのではなかろうか。
中国の法廷で戦犯として裁かれた元将校の話も強烈である。
九名の農民を同時に斬首殺害したというこの将校は、その殺害過程を大勢の中国人の前で涙をぬぐいながら陳述したという。投獄されていた時に、母親と弟が面会に来る。母は、なぜ息子が戦犯となっているのか理解できない。尋ねられた息子はついに告白する。〈「あの戦争を自分は正しいと信じて、私は戦場で逮捕した中国軍人や民間人を厳しく取り調べて殺したんです……」。〉それまで中国人とも親しくしていた母親は、息子から話を聞いて身体を震わせ大声で泣き続けたという。この元将校は〈「せめて母親が死ぬまでは、とか、肉親が亡くなるまでは……と渋って戦場での記憶を語ることを拒否できるのはまだ幸せなほうなのだ」〉とも語っている。
一九三七年に当時の中国の首都・南京で起こった「南京虐殺」。この事件について私も調べた経験がある。陸軍の公式史料はやはりほとんど見つからず、それでも日本兵が現地で書いていた私的な「陣中日記」を三十冊以上見ることができた。市井の研究者が収集していたものである。そこに記されていたのは驚愕の事実だった。
福島県の歩兵第65聯隊という部隊が、南京市郊外で約一万五千人もの中国兵を捕虜にする。だが、そこから事態は迷走する。日本軍は元々補給も無い中での上海からの進軍だった。徴発という名の略奪を繰り返し、自身の食事も欠く中で、捕虜に与える食料は無い。やがて本部からは「処理せよ」という命令が下る。捕虜たちを後ろ手に縛り、揚子江の河川敷に連行して、機関銃で一斉に射殺したというのだ。
捕虜の処刑は国際法違反である。戦後、部隊の幹部たちは戦犯に問われる事を恐れ、部下の家を訪ねては、揚子江岸での出来事を口止めして廻っていたという。ここにもまた負の事実を葬り去りたい人々がいたのである。
敗戦時に焼却された戦時記録だが、その後になって判明した事実がある。
焼却から約五十年が経過した一九九六年。参謀本部があった市ヶ谷台地の敷地で自衛隊施設の改築工事が行われた。その際、土中から意外なものが出土したのだ。大量の灰。炭化した紙の束……、それは燃やしたはずの陸軍の記録であった。そして束になっていたために縁が焦げただけの書面が奇跡的にも見つかったのだ。消えたはずの史料が突然現代に蘇ってきたのだ。私は、取材の経緯でその実物に触れることができたのだが、その中にこんなものを見つけたのである。
〈敵国首都 南京を攻略すべし〉
それは南京へ攻め込むことを記した陸軍の命令書類であった。焼け残りからその書面が発見されたということは、つまり他の南京虐殺に関わる史料は全て灰になった……、という事を意味すると考えて良いだろう。
責任回避のために事実を消滅させたはずの我が国。しかし同時に、中国側から南京大虐殺の犠牲者は「三十万人」と主張されても、史料に基づいて「説得力ある否定」をすることもまたできなくなっているのだ。
本書において保阪氏は、中国人、朝鮮人の強制連行の実態について同様の指摘をしてる。
〈「資料や記録によって明確になっているわけではないので、事実か否か判断する根拠はない」と日本側が突っぱねたとすると、逆に日本の文書管理、つまり記録を焼却したという現実を突きつけられて、「日本の政治、軍事指導者たちが一方的に文書を焼却したのであり、それが残っていない以上、資料や文書はないとの弁明は根拠になり得ない」と反論されることになる〉
そのとおりであろう。そしてまた〈日本政府や大本営が採った国策が、次世代にどれだけ不利益を与えているか考えたとき、戦時指導者たちの歴史的無責任に強い怒りを覚えざるを得ない〉と断じている。
アジア諸国から太平洋までを巻き込み、自国をも滅亡寸前まで追いやった戦争。
その現実を知る人々は時間の経過に比例して確実に絶滅へと向かっている。本書はそんな貴重な証言を追い続けることで、戦後も続いている暗部に気づき、警告を与えている一冊であろう。
著者は自身が辿り着いた信念として、文末にこう記している。
〈記憶を父とし、記録を母として、教訓という子を生み、そして育てて次代に託していく〉
まさに。先の戦争を何かの糧にできるとすれば、その方法は他には見当たるまい。
南京事件についての著書を持つジャーナリスト・清水潔が寄せた解説文