ちくま学芸文庫

『フランシス・ベイコン・インタヴュー』解説

6月刊行のちくま学芸文庫『フランシス・ベイコン・インタヴュー』(デイヴィッド・シルヴェスター著、小林等訳)より、保坂健二朗氏による文庫版解説を公開いたします。本書に収録されたインタヴューが行われたのは1962~84年のことですが、実はこのインタヴューでは様々な事実が「隠されていた」といいます。インタヴューに秘められた「戦略」とは何だったのか。ベイコン研究の最前線を紹介します。

語れるアーティスト
 フランシス・ベイコンは自分の作品について次のように述べている。「具象的なものを、神経組織に対して、より暴力的に、そしてより鋭くもたらそうという試みなんです」(本書15頁、訳語は一部変更、以下同じ)
 この短い言葉には大事なポイントが四つ含まれている。ひとつめは、ベイコンが「具象的なもの(figurative thing)」と言うとき、そこには人間像(figure)という意味が含まれていること。ふたつめは、ベイコンが自らの絵画作品の与える感覚は、観者の視覚/網膜にとどまらず、その神経組織(nervous system)まで辿りつくはずだと考えていたこと。みっつめは、彼は決して暴力的なシーンを描こうとしていたのではなくて、暴力的に(violently)作用する絵画を生み出そうとしていたこと。二度の世界大戦を経て、神への信仰はおろか人間を人間たらしめていたはずの理性と愛への信頼も失われていたヨーロッパにおいて、ベイコンは、今一度、人間に対する深い関心を見る者のうちに生起させようとしていたのだ。
 そして最後となるポイントは、ベイコンが自らの制作の目的と作品の特徴とを自分の言葉で的確に捉えることができるアーティストだったということ。本書を紐解けば、彼が、どんな批評家よりも的確かつ雄弁に絵画を語れる人物であったことがわかるだろう(彼が眼をきらきらさせながら話す映像を、ぜひともインターネットなどで探し出してほしい)。16歳の時に本書に出会ったことがアーティストになるきっかけだったというダミアン・ハーストは、次のように語っている。

私にとってこのインタビュー集は、理解するために辞書を引くことを必要としなかった最初の美術書だった。しかもそれは、絵画の歴史についてだけでなく、絵画の未来についても、とてつもなく独創的なんだ。(『ガーディアン』2007年9月13日)

稀代のインタビュアー
 ベイコンから言葉を引き出す役割に選ばれたのが、美術批評家でありキュレーターであったデイヴィッド・シルヴェスターだった。
 1924年ロンドン生まれ。父親はロシア系のユダヤ人で骨董商を営んでいたという。17歳の時、アンリ・マティスの《ダンス》に衝撃を受けて絵を描くようになるが、絵を描くよりも文章を書く方に才能があると感じ、やがて雑誌『トリビューン』などに展覧会評や書評を寄稿するようになる。1947年、パリへと移り住み、翌年アルベルト・ジャコメッティに出会う。キュレーターとしての初めての仕事は1951年のテート美術館でのヘンリー・ムーア展で、1956年のテートでのジャコメッティ展、1969年のテートでのルネ・マグリット展、1988年のパリ国立近代美術館およびテートでのピカソ展など重要かつ大規模な展覧会をいくつも企画した。マグリットについてはカタログ・レゾネ(作品総目録)の編纂者を務める。1993年にはヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展で、批評家としては初めてとなる金獅子賞を受賞。2001年6月没。ちなみに画家のセシリー・ブラウンは彼の娘である。
 ここで書き留めておきたいのは、シルヴェスターは批評家がインタビュアーを務める先駆者でもあったということだ。1950年代は、批評家は文章だけを書くべきだとまだ思われていた時代で、そもそも今日ほど雑誌や単行本にインタビューが掲載されていたわけではなかった。そうした中で彼は積極的にインタビューを原稿化していったのである。しかも彼はラジオやテレビにも積極的に関わった。その「代表作」としては、1964年にBBCのテレビで放映されたシリーズ「十人のモダン・アーティスツ」や、1967年にBBCのラジオで放送されたアメリカのアーティストへの一連のインタビューなどを挙げられるだろう。ちなみに、今日世界で最も有名なキュレーターであるハンス・ウルリヒ・オブリストは優れたインタビュアーとしても知られるが、彼はシルヴェスターの仕事に影響を受けたと語っている。
 そのシルヴェスターとベイコンは1950年代以降、友人関係にあった。彼に「リアリズム」の可能性を再確認させたのはベイコンの作品であった。にもかかわらず彼は、BBCからベイコンへのインタビューを依頼された際、最初は断ろうと思ったという。その理由は、ベイコンがジャクソン・ポロックを全く評価していないことをよく知っていたから、だった。

時代背景
 先述した経歴が示すように、シルヴェスターはいわゆる具象系の美術の擁護者として文章を書き、展覧会を企画した人物として知られている。しかし1950年代後半から60年代前半にかけては、イギリスに同時代のアメリカ美術を、とりわけ抽象美術を紹介する役割を担っていた。彼は50年代半ばからポロックの作品を評価するようになるが、ちょうどその頃ロンドンではアメリカの現代美術を紹介する展覧会が連続して開催され話題を呼んでいた。1958年にはホワイトチャペル・アート・ギャラリーで亡くなって間もないジャクソン・ポロックの回顧展が、1959年にはテートで「アメリカの絵画」展が、1961年にはホワイトチャペルでマーク・ロスコの展覧会が開催されている。これと並行してアメリカ国務省はイギリスの有力な批評家達をアメリカに招聘していて、1960年にはシルヴェスターも選ばれている。
 本書に収められている最初のインタビューが行われたのは1962年10月のこと。同年の5月から7月にかけてテートでベイコンの回顧展が開催されたことがひとつのきっかけになっていたはずのインタビューが、なぜ「抽象画を描きたいと思ったことはあるのでしょうか?」という質問から始まるかと言えば、それは以上のような背景があるためである。そしてベイコンは、自作を「いわゆる具象的な絵画と抽象との間の綱渡り」(本書15頁)だと表現する。抽象という行為それ自体を決して否定することなく、かつまた弁証法などという辞書を引かなければわからない言葉は使ってもおらず、見事である。
 ポロックという補助線を引くと、ベイコンが1944年の作品(本書17頁)を自作の「最初期」だと強調したい気持ちがより深くわかる気がする。彼が実際に絵を描き始めたのは1920年代終わりのことだし、1933年には代表作とも言える作品が描かれている(本書99頁)。それなのになぜ1944年の作品を「最初期」だと位置づけるのか。それは第一に、自らを第二次世界大戦後の世代のアーティストとして確立したいという思いゆえだろう。そして偶然であれ、実際に彼は戦争が終わる前年に満足のいく作品を生み出していた。だが、今ひとつ別の理由があったのではないか。ポロックがあの「ポアリング」と呼ばれる独自の技法を始めるのが1943年頃のことなのだ。自らのスタートラインをポロックとほぼ同時期に設定することで彼との対比関係がより明確になる……ポロックを仮想敵にすることで、ベイコンは自らの作品を定義づけていった可能性が高いと私は考える。
 そしてインタビューは70年代を経て1984年まで続く。そこでは1962年のインタビューでも登場する「偶然性(accident)」の議論が繰り返される。そのことも時代背景を確認すれば納得できるだろう。1969年の「態度が形になるとき」展や1970年の「ハプニングとフルクサス」展といった伝説的な展覧会に象徴されるように、コンセプチュアル・アートやパフォーマンスなど、もはや形をとらない作品や、作者の主体性を疑うような作品が注目されつつあった時代なのだ。安直に伝統と結びつけられやすい人物像を描き続けていればこそ、ベイコンは、自らの作品のアクチュアリティを強調する必要があった。

隠されていた事実
 つまり私は、このインタビュー集には「戦略」があると言いたいわけである。実際、ベイコンが亡くなって以降、様々な一次資料が表に出てくることで、ベイコンがこのインタビュー集で――おそらくは、自らが望むアーティスト像を確立したいために――様々な事実を隠していたことが明らかになっている。
 発端は、1996年から翌年にかけてパリとミュンヘンで開催された、これまでのところ最大規模と言える回顧展である。シルヴェスターをキュレーターに据えたこの展覧会で、いわゆる下絵と言えるドローイングと水彩が計5点展示されたのだ。ベイコンがインタビューにおいてその存在を常に否定していたものが、亡くなってからそれほど時も経ってないのに世に出てきたという事実は、シルヴェスターがその存在を以前から知っていたことを示唆する。
 そして、ロンドンのサウス・ケンジントンにあったベイコンのアトリエが、彼の生地でもあるダブリンのヒュー・レーン美術館に寄贈されると(公開は2000年)事態は急展開する。引越しのためにはあのカオス的なアトリエを一旦整理し、その上で再現しなければならない。そのためにはなんと考古学を専門とするチームも参加したという。そうして膨大な量のイメージソースが「発掘された」。その成果は、2005年のマルガリータ・カポックによる『フランシス・ベイコンのスタジオ』や2008年のマーティン・ハリソンによる『フランシス・ベイコン:インキュナブラ』といった書物の中で発表された。なかでも興味深いのは、本書でも紹介されているディエゴ・ベラスケスの絵の複製写真である。それは、下部がくしゃくしゃの状態のままクリップで留められている形でアトリエから発見された。つまり、おそらくベイコンは、脚部が見えない状態を意図的につくり、それを見て描いていたのである。彼は、複製写真を利用して、下絵を(描くのではなく)つくっていたのだ。
 ここでもうひとつ「隠されていた事実」を挙げるとすれば、それはイギリスの影響である。本書に出てくるアーティストのほとんどはフランス人かイタリア人。オランダ人も少し出てくるし、ギリシャ彫刻やエジプト彫刻の話も出てくる。それに対してイギリス人で出てくるのは写真家のエドワード・マイブリッジくらいで(本書168頁、ただし文学者は数多く登場する)、これはベイコンがロンドンに拠点を長くおいていたことを考えるとさすがにおかしい。しかし、ベイコンがウォルター・シッカートやグレアム・サザーランドやロン・ヘロンといったイギリスのアーティストからも影響を受けていたことを、今や様々な「証拠」が示している。
 つまりは、本書でベイコンは(そしてインタビュアーのシルヴェスターは)、ベイコン作品とラテン世界およびギリシャ世界との精神的なつながりの確かさを強調したかったのだろう。それは、第二次世界大戦後においてイギリスの美術がおかれていた状況を考えてば、極めて有効な方策だったと言うことができる。
 こうした状況であるため、現在のベイコン研究には、インタビュー集におけるベイコンの発言に批評的なまなざしを投げかけつつ、これまでになかった新たな視点を提示するものが少なくない。たとえば2002年に刊行されたマーティン・ハンマーの『フランシス・ベイコンとナチスのプロパガンダ』。これはベイコンが、ナチスのプロパガンダを想起させるモチーフや構図をあえて借用することで、ホロコーストが行われたことが明らかになったと同時に冷戦という抑圧的な時代にある人間の感情を描こうとしていたのだということを、多くの資料を渉猟して実証しようとした労作である。また2012年に刊行されたリナ・アリアの『フランシス・ベイコン:神なき世界の絵画』は、ベイコンと宗教との複雑な関係についてのブリリアントな理論的研究。そこでは、ベイコンは単に磔刑図を骨組み(armature)として利用したのではなくて、神なき世界において、欲望と怒りに満ちたこの肉体がどのような死に至り、そしていかに救済されるのかという神学的な問題を、無神論者の立場から絵画を通して検証しようとしたのだということが述べられている。
 そして2017年には念願のカタログ・レゾネが、ハリソンの編纂のもと発刊された。そこには1929年から1992年までの油彩584点と、ドローイング61点とが収録されている。興味深いのは、レゾネ所収のハリソンの概説によると、ベイコンのいとこであるダイアナ・ワトソンはベイコンが美術学校に何度か通ったことのある可能性を指摘していたらしいこと。ロイ・ド・メストルというオーストラリア出身の画家がベイコンに絵の具の扱い方から教えていたという話も今では確認されている以上、彼が「独学」のアーティストだったと断言するのには注意が必要なのである。

ふたりの本当の関係
 先述したベイコンのアトリエからは、インタビューの文字起こし、つまり、校正が入る前の、録音を忠実にタイプした原稿も見つかっている。そのごく一部が数年前ある論考で紹介されたのでここに訳出しておこう。(Sandra Kisters, Interviewing Francis Bacon : Unrealiable Oral History, kunsttext.de, 3/2012)

D・S(デイヴィッド・シルヴェスター)――でもあなたは、主観的なリアリズムと客観的なリアリズムがあると言ってますよね。
F・B(フランシス・ベイコン)――いや、言ってないけど……
D・S――ごめんなさい。
F・B――……ふたつのリアリズムがあるなんて思ってないね。
D・S――ええ、そうでした。すみません。
F・B――私が考えているのは、リアリズムというのは、主観的なものと客観的なものを包含しているということだ。
D・S――ええ。
F・B――いいか、ふたつのリアリズムがあるだなんて、これっぽっちだって思ったことはないんだよ。

 ベイコンが会話の主導権を完全に握っているのは、この箇所だけだったのだろうか……そんなことはないだろう。シルヴェスターは『回想フランシス・ベイコン』の序文で次のように告白している。

その時期[引用者注:ベイコンにインタビューをしていた時期]、私は彼についてテレビ用の台本をひとつかふたつ書いたくらいで、紙媒体には一切書かなかったし、その状態は彼が亡くなる1992年まで続いた。思えば、インタビューが進行中の間はずっと、私はそのアーティストに対してある種、腹心の部下として仕えていて、批評家として、あるいは彼の作品の歴史を知る者として、距離をとって(with etachment)ふるまう自信などなかった。彼が亡くなってすぐに堰を切ったようになった結果が、この本である。

 つまり2000年に発刊されたこの『回想録』が、シルヴェスターが書いた最初で最後のベイコンのモノグラフなのである。

日本とのつながり
 1992年を境に、シルヴェスターはベイコンについて書くだけでなく、彼の展覧会も手がけるようになる。最初となったのが、1993年のヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展の際にコッレール美術館で開催された回顧展で、『回想』ではその際の面白いエピソードが紹介されている。オープニングの会場でビエンナーレのディレクターに在ローマ日本大使の案内を命じられたシルヴェスターは、以前からしばしば思っていたこと、すなわち1981年に制作された三幅対の中央パネルにある人物像が日本の甲冑に見えることを
口にしてみようと思ったのである。

私はこの考えを大使に対して打ち明けることで重い沈黙を破ろうとしたのだったが、彼は、私にからわれたか、自分の国の遺産を侮蔑されたと感じているような表情をその顔に浮かべた。
 その時突然、フラットに塗った色でコントラストのある面をつくりながら背景を構成していくベイコンの手法が、西洋近代のアートに対する日本の浮世絵の影響を示す有力な証拠であるように思えた。私は、自分に友好の気持ちがあることを大使に信じてほしくて、今度はこの考えを伝えてみた。彼は、腕時計を見て「電車に乗らなければいけません」と言ってその場を離れた。

 ベイコンに浮世絵の影響を見て取る……これは高齢の大物の批評家にありがちな、思い込みでまわりを困らせるケースだろうか。彼はこのエピソードに続いて、その後他の展覧会も手がけていく中で、「私にとってベイコンは日本の浮世絵に大きく魅了されたヨーロッパ人の一人であり続けている」と他の作品も実例に挙げつつ述べている。
 ハリソンはレゾネに収録された概説の本文で、浮世絵の絵画的特性がゴーギャンの作品経由でベイコンに伝わった可能性を指摘している。またその注において、1961年にヴィクトリア&アルバート美術館で歌川国芳の展覧会があった事実を指摘しつつ、歌川国貞の作品が、ベイコンの三幅対の着想源になったかもしれないと示唆している。確かにベイコンは1962年と1965年に、赤いフラットな色面を背景に持つ、重要な三幅対を制作している。またベイコンのアトリエからは柔道や空手の教本も発見されていて、それらの本に掲載されている様々な技の写真が、ベイコンの描く人物像のポーズに影響を与えた可能性は否定できない。ベイコンと日本は、意外と近いかもしれないのである。
 こうした発見からわかるのは、色鮮やかなフラットな色面と歪んだ人物像による絵画という構成が、ベイコンの作品を研究し続けている者にとって、そのソースを極東にまで探し求めたくなるくらい特異だということである。そしてさらにそこからわかるのは、もし彼の絵がそれほど特異ならば、今ここで私たちが確認しなければならないのは、ベイコンの特異な絵画がどのように生まれたかでは決してなくて、なぜ生まれたかを改めて考えること、すなわちベイコン研究の再転換の必要性である。