ちくまプリマー新書

市場という発明
松井彰彦『市場って何だろう――自立と依存の経済学』

PR誌「ちくま」から、東京大学准教授で医師の熊谷晋一郎氏による 『市場って何だろう 自立と依存の経済学』(松井彰彦著、ちくまプリマー新書、7月刊)の書評を公開します。熊谷さんご自身のご経験に照らしながら、本書の核心を解いてくださいます。是非お読みください。

 自立とはなんだろうか。それはしばしば、依存の対義語としてとらえられ、「何にも頼っていない状態」としてイメージされもする。しかし果たして何ものにも依存せずに生きている人などいるだろうか。毎日食べているお米は誰が作っているのだろう? 今、身に着けている衣服は誰が縫ってくれたのだろう? 毎日の生活を少し振り返っただけで、すべての人が日々、膨大な物や人に、直接、間接的に依存していることが分かる。

 松井彰彦著『市場って何だろう』は、ゲーム理論を専門にする理論経済学者であり、障害や難病といった少数派の問題を経済学的な視点から論じてきた著者が、自立と依存の関係という観点から、市場の成り立ちやその限界を一般読者向けにわかりやすく解説した好著である。文学作品や個人的なエピソード、時事的な話題など、身近に感じられる豊富な題材を参照しながら、最先端の経済理論について予備知識なしでも分かりやすく読み進めることができる。著者のメッセージは一貫している。依存と自立は反対語などではなく、多様な依存先を選択できる状態こそが自立であり、限られた依存先に調達ルートを独占されている状態が自立していない状態なのだ。そして独占を避け、効率的な「市場」の条件を探求してきた経済学は、自立した個人を前提とした学問という以前に、ある意味では、個人が自立できる(=依存先を独占されない)前提条件を見極めようとした学問ともいえるのである。

 本書は二部構成で出来上がっている。第一部は第一章から第五章までで、共同体と市場との違い、貿易という形で広がる国際的な市場、政府と市場の関係、市場の失敗とその回復など、市場の成り立ちとメカニズム、その限界について扱っている。そして第二部は第六章から第九章までで、障害や希少疾患、女性や民族的少数派といった、市場から排除されがちな社会的弱者の問題を取り扱っており、包摂的な「みんなのための市場」のデザインについて、先進事例を紹介しつつ論じている。

 この二部構成は、評者にとって特別な意味を持つ。というのも評者自身、脳性まひという身体障害をもっており、長年、障害をもちながら自立するとはどういうことなのかについて考えてきたからだ。本書の中でも紹介していただいているが、評者の考えは著者と一致している。すなわち、依存先を独占されない状態こそが自立なのだという考えである。重要な点は、市場を含む社会は健常者に対しては豊富な依存先(健常者にとって使いやすい建物、道具、サービス、制度など)を提供するものの、障害者などの少数派には、限られた依存先しか提供しない傾向にあり、その結果、障害者市場は独占や寡占状況に陥りやすく、その結果、自立が妨げられているということである。

 評者は、トイレや着替え、入浴など、ほぼ24時間にわたって他人の介助なしには生きられない。親元を離れて一人暮らしを始めたころ、先輩障害者から「とにかくたくさん介助者を確保しろ」とアドバイスされた。それはまさに、介助者による独占状態を回避することが、自立した尊厳ある暮らしの必要条件だという経験知に基づいていた。他にも、「無償ボランティアは、感情的なしがらみになるので避けろ」と、貨幣や市場を介在させることの重要性を教えてもらったり、「健常者から『できることは自分でしてください』と言われたときには、『ではあなたはすごく頑張ってようやくできるようになることをすべて自分でやっているといえますか? 例えば、食べ物を自給自足していますか?』と反論しろ」と、比較優位の重要性を指南されたりもした。健全な市場の存在は、障害者の自立にとっても、極めて重要な前提条件なのである。

 市場や経済と聞くと、非人間的なお金の話をイメージする人も多いかもしれない。しかし本書は、依存と自立という人間存在の核心的な部分に焦点を当てることで、社会的弱者を含むすべての人間のために市場はなくてはならない発明なのだということを優しく教えてくれる。

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