PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

武士の起源と歴史本の大ヒット

『応仁の乱』など、日本史の新書が大ヒットになる昨今、ヒットとなるものとその他二番煎じとの違いはどこにあるのでしょうか。 その違いを検証する意味でも書かれた『武士の起源を解きあかす』に関する著者桃崎有一郎さんのエッセイです。ぜひご覧くださいませ。

 武士について考えることは、日本人について考えることだ。『武士の起源を解きあかす』という本を書いて、つくづくそう思った。それは、武士が日本人の精神を代表しているからではない。武士に関する新しい知見が盛り込まれた本が出た時、日本人がどのような反応を示すか。それが、現在の「日本人」を理解する上で有益な、直接的なバロメーターになるからである。
  武士について考えるのは、歴史学の仕事だ。その歴史学には、宿命的な弱点がある。それ自体が富を生み出す学問ではない、という点だ。自然科学のように、新発見が誰かの寿命を延ばしたり、誰かの生活を格段に便利にして、その新技術・新商品の売り上げが莫大な富をもたらしたりはしない。そのため、歴史学への〝投資〟も、歴史に学ぶことで物の見方を豊かにし、人間としての幅を広げ、広い意味で豊かな人生を送るためのものであって、狭い意味での(金銭的な)リターンは期待できない。
   歴史学への〝投資〟の根幹には、ただ〝歴史を(より深く)知りたい〟という知的好奇心があるのみだ。その知的好奇心が満たされることに、お金を払う価値があるかどうか。それだけが、歴史学を富に換えるレートを決める。政府が研究費や奨学金を与えるか、学生や社会人が授業料や講演料を支払うか、読者が本を買うかなど、すべてにおいてそうだ。どうしても、そのような間接的な形でしか、歴史学は富に換えられない。だから、歴史学の〝収益〟は、歴史に知的好奇心を抱く人の絶対数に左右される。
  しかし、ただでさえ若者が本を読まず、その若者の数も減り、若くない人も紙の本を読まなくなってきた。その中で、ただでさえお金にならない歴史の本など、風前の灯火のはずだった。
  ところが不思議なことに、ここ十数年の間に、時々、桁外れに売れる日本史の新書が現れるようになった。数十万人規模の日本人が、武士の家の家計簿や室町時代の応仁の乱にただならぬ興味を抱き、それらについて専門家の専門的な知見に触れるために、千円弱の代価を支払おうと決断した。われわれ歴史学者にとって、これは驚くべき事実だった。自分たちの扱っている学問に、それほどの市場価値があるとは思っていなかったからだ。
  とはいえ、歴史関係なら何でもお金を払おう、というような、学界全体を潤すバブルが到来したわけではなさそうだ。その証拠に、右のベストセラーに追随して二匹目のドジョウを狙ったいくつもの本が、〝元祖〟ほど売れたり話題になったりした形跡がない。どうやら、誰もが買いたくなるコンテンツとそうでないものが、しっかりと読者側で選別されているようだ。
  それにしてもなぜ、一部の本だけがずば抜けて、そしてあれほど大量に売れるのか、誰にもよく理由が分からず、皆が首をかしげている。
  しかし最近、私は答えに気づいた。圧倒的な大ヒット作とその他の二番煎じの間には、明白な違いがあり、それが日本人と歴史学の関係に直結している、ということに。今回私が世に問う『武士の起源を解きあかす』という本は、実はその私の見立てが正しいかどうかを試す試金石でもある。見立てが正しければ、この本は需要に恵まれるだろう。そして歴史学には、さらにいえば私の手もとには、その需要に応えられる、とっておきのコンテンツがまだ山ほどストックされていると、確信できそうだ。その答えを書きたいが、もう紙幅がない。
  ちなみに誓っていうが、この本はベストセラーの二匹目のドジョウを狙ったり、昨今の謎の中世史ブームに乗って一儲けを企んだものではない。序章に書いた通り、自分の研究計画と成り行き上、避けて通れなくなった問題に取り組んだ、真剣な研究成果であり、しかも高校生以上なら読破できるように、平易に書いたつもりだ。楽しんで頂けたら幸いである。