誰からしいれた話なのかは、もうおぼえていない。だが、私は片山さんについてのおもしろい噂を、あるとき耳にした。いわく、片山さんは、けっこうプロ野球にもつうじている。ひいきの球団は、なんと、今はもうなくなった近鉄バファローズであるらしい、と。 東京で育った片山さんが、よりにもよって近鉄を応援しはじめたのは、どうしてか。阪神なら、まだわかる。首都の野党的な野球好きには、タイガースへ声援をおくる人が、けっこういる。しかし、近鉄については、まったく事情がつかめない。
首都圏では、近鉄の試合がテレビで放映されることなど、ほとんどなかったろう。ラジオも、あまり中継はしなかったと思う。スポーツ新聞だって、どれだけ紙面をさいていたことか。はなはださみしい報道ぶりであったと、考える。関西のスポーツ紙でさえ、近鉄のことはいいかげんにしかあつかわなかったのだから。
しかし、そういう逆境こそが、片山さんをふるいたたせたのではないか。
関西では、それでもときおりラジオが近鉄の試合をとりあげた。その中継へ、東京の受信機では雑音にまみれるわけだが、耳をすまして聞きいろうとする。あるいは、巨人戦の放送中につたえられる近鉄の途中経過へ、耳をかたむけた。なかなかアクセスしづらい近鉄の情報に、あの手この手を駆使して近づこうとする。その困難が、片山さんには、どこか心地良かったのかもしれない。
ここで言う「近鉄」を、私は現代音楽の隠喩として、もちだした。レコードやCDは、あまり世にでない。ラジオやテレビがとりあげることも、まれである。現代音楽は、そんなジャンルだったからこそ、片山さんの魂をひきつけた。首都圏では存在感のうすい近鉄が、琴線を刺激したようにと、言いたくて。
私は片山さんをマイナーな趣味に生きる人と、位置づけたがっているようである。誰もが気持ちをよせそうな王道には、関心がむかわない。大多数の人びとが目をむけない脇道へ、宿命的に興味をいだいてしまう人なんだ、と。
しかし、そうとも言いきれない背景は、首都東京にならあったかもしれない。
片山さんは、この本で冨田勲の音色を論じている。そして、その前置に、シュトックハウゼンのヘリコプター四重奏を、もちだした。弦楽四重奏の各パートがヘリコプターへのりこみ、ヘリの爆音とともに演奏する。それを地上のミキシングにより、楽曲としてなりたたせる。そんな前衛音楽の試みを話の枕におきながら、冨田へ言及した。
もう、二十年近く前のことになるだろうか。私は渋谷のタワーレコードで、ヘリコプター四重奏のCDを目撃した。見れば、オランダ空軍の協力で世界初録音が実現うんぬんと、ポップに書いてある。
マニアックなCDだなと、まず思う。そんなCDが平積みとなり、ポップまでそえられている光景に、私は感心した。
いや、それだけではない。私はその場で、「あっ、でている」と、このCDを指さす若い人たちにも遭遇した。三、四人づれの高校生だったろうか。あるいは、中学生だったかもしれない。いずれも男子だったが、シュトックハウゼンの新譜に興じあっている光景を、目撃した。そして、その様子には、心の底から感銘をうけている。
私は関西人だが、地元のCD店でこのヘリコプター四重奏は、一枚も見ていない。大阪でも京都でも、そんなものは売れっこないと判断されているせいだろうか。もちろん、これをおもしろがる若い人たちとも、でくわしたことはない。
渋谷では、だからしみじみかみしめたものである。こういうテイストに関するかぎり、大阪や京都はおくれをとっている。とんがった実験音楽へむかう好奇心で、関西はとうてい東京にはりあえない、と。
もちろん、首都の中高生が、みなその趣味をわかちあっているとは、言わない。ヘリコプター四重奏の初録音をよろこべるのは、圧倒的な少数者であろう。それでも、同じ学校に、こういう話題をおもしろがれる仲間が、ちらほらいる。東京はそういう街なんだと、痛感した。一部の私立校が、こましゃくれた生徒を培養しているだけかもしれないのだけど。
片山さんもそんな精神土壌ではぐくまれた書き手なのだと、関西人の私には見える。
東京が大きく開花させた知性だと、感じてしまう。ひがみっぽい言い方になるが、大阪や京都からは出てこない人材だとも、のべそえたい。
片山さんとはくらべるべくもないが、私も現代音楽を、しばしば聴いてきた。とっかかりは、たいていジャズである。たとえば、キース・ジャレットの演奏で、サミュエル・バーバーにはしたしみだしている。あるいは、ショスタコーヴィチにも。そう言えば、一柳慧も、山下洋輔がひいているからというので、聴きだした。
いわゆる現代音楽のなかでも、ジャズの響きをもつ曲は、やはり気になる。自分でかってに、オルタナティブなジャズとしてとらえ、うけとめてきた。
片山さんとのかかわりを言えば、大澤壽人のピアノ協奏曲を気にいっている。その二番(一九三五年)と三番(一九三八年)は、NAXOSのCDで、くりかえし聴いてきた。どちらも、私の愛聴盤である。今は三番のほうをかけながら、この文章を書いている。
大澤壽人は、一九三〇年代にボストンとパリで作曲をまなんだ。日本の音楽学校は、ていない。中学から関西学院に入り、大学(商業学部)まで同学院にかよっている。
音楽的な手ほどきは、神戸にいた西洋人の音楽家たちからうけた。関学の卒業後は、すぐアメリカ、そしてのちにはヨーロッパへもわたっている。パリの楽壇では、将来を嘱望されもした。ホープのひとりだと、その作品群で斯界をにぎわせてもいる。
にもかかわらず、大澤のことは日本で、長らくわすれられてきた。それを、二一世紀になってほりおこしたのは、ほかならぬ片山さんである。大澤家の遺品から、たとえばさきほど紹介したピアノ協奏曲の譜面を、見いだした。NAXOSとかけあい、そのレコーディングにこぎつけてもいる。私などが大澤楽曲をたのしめるのも、まったく片山さんのおかげなのである。
戦前の阪神間には、子弟の音楽教育で金をおしまぬブルジョワが、けっこういた。また、亡命のロシア人を中心に、そちら方面の家庭教師たりうる人材も、そろっている。音大などへかよわなくても技をみがける環境が、そこにはできていた。大澤が、いきなりボストンへ旅立てたのも、そのせいである。
ただ、日本の音大とかかわりのなかった音楽家に、講壇音楽史はつめたい。わりあい、ひややかにあつかう傾向がある。大澤がないがしろにされてきたのも、ひとつはそのためだろう。
私はさきほどこう書いた。片山さんは、東京がそだてた、東京でなければ出現しにくい逸材である、と。そして、そういう東京的な片山さんが、関西のうもれた作曲家を発掘し、光をあててくれた。そのことへ、ひとことお礼を言いたくて、この解説を書かせていただいたしだいである。
くりかえすが、私の音楽的なうんちくは、遠く片山さんにおよばない。だが、機会があれば、「いてまえ打線」の魅力を語りあいたいなとは思う。阿波野が野茂にいだいただろう複雑な葛藤を、どううけとめておられるのか。噂のマシンガントークが、たのしみでなくもない。
サントリー学芸賞と吉田秀和賞をダブル受賞した片山杜秀『音盤考現学』『音楽博物誌』を再編集して文庫化。井上章一さんによる解説。