まえがき 井上章一
戦国時代の武将は、多くの歴史愛好家をひきつけてきた。日本史への関心を幕末の志士とともに二分し、ささえている。いわゆる歴史小説の世界でも、よくとりあげられる。あるいは、テレビのドラマや時代劇映画、そしてパソコンなどのゲームでも。
ビジネスの現場でも、言及されることはままある。いよいよ、明日は関ヶ原だ、桶狭間だというような会話は、今でもじゅうぶんなりたつ。個々の経営者を信長や秀吉、そして家康になぞらえる指摘も、しばしば耳にする。
今あげた三人については、名字をしめさなくても、誰のことかがすぐわかる。信長と書くだけで、織田信長をさしていると、のみこめる。秀吉が豊臣秀吉で、家康が徳川家康であることも。
いや、この三人だけにかぎらない。光秀と聞けば、たいていの人が明智光秀を想起する。主君の信長を、本能寺で亡き者にした武将だな、と。信玄や謙信が武田信玄や上杉謙信であることも、ごくふつうに了解されている。早雲が北条であり、元就が毛利であることも、一般常識になっていよう。それだけ、戦国時代の歴史は、多くの人びとにしたしまれている。
この時代を生きた女性も、歴史好きからはひんぱんにとりざたされてきた。小谷方は、信長の妹でいちとよばれる人だが、たいそう有名である。その三人娘、ちゃちゃ、はつ、ごうも歴史小説のヒロインに、しばしばなる。とりわけ、秀吉の跡継ぎをなしたちゃちゃ、淀方は話題になりやすい。
もちろん、秀吉の妻であるねね、北政所のこともよく知られている。ほかにも、大名の妻女で人気のある人は、少なくない。前田利家、山内一豊、そして細川忠興の奥方はそういう女性の代表例にあげられる。もっとも、一豊の妻が夫のために馬を買う話は、後世の虚説であるけれども。
戦国人物誌は後世の歴史語りに、好個の話題を、提供してきた。今とりあげた人物群像も、一七世紀の江戸時代から、あれこれ論じられている。そして、その状態は、今日にいたるまで継続されているのである。
いっぽう、目をヨーロッパへむければ、様相は一変する。
戦国時代の日本事情は、キリスト教の宣教師があちらにもつたえていた。一七世紀のはじめごろまでは、さまざまな情報がとどいている。しかし、一七世紀のなかばごろからは、それがとだえるようになる。
にもかかわらず、日本の戦国史は、しばしばヨーロッパでもふりかえられた。一八世紀いや一九世紀になっても、回顧の対象となっている。たとえば、関連のある出版物が刊行されつづけた。劇作化もなされている。
ヨーロッパで、もっとも関心があつまったのは、キリスト教とかかわる歴史である。とりわけ、その弾圧史、殉教史に、興味が集中した。じっさい、高山右近、小西行長、大友宗麟の足跡などは、くりかえし語られている。
なかでも、高山右近の評判は群をぬく。周知のように、生前の右近はキリスト教の信仰をすてなかった。江戸幕府の禁教令もはねつけている。そのため、日本からは追放されフィリピンのマニラにおくられた。そして、マニラ到着後まもなく、亡くなっている。
その最期は、殉教とみなされた。ローマ・カトリックの世界でも、今後右近は聖人として認定される可能性がある。まだ、そうみとめられてはいない。だが、列聖の候補者にはなっている。いずれは、高山ジュスト右近の名がバチカンでひびきわたる日も、くるかもしれない。
いずれにせよ、右近は極東におけるカトリックのヒーローであった。信仰をまもりぬいたその姿は、劇の演目ともなり、しばしば上演されている。オペラ化もされた。
日本国内の戦国時代史語りで、右近がとりあげられる機会は、あまりない。少なくとも、信長、秀吉、家康あたりとくらべれば、存在感は小さくなる。日本側の戦国時代観は一七、八世紀ヨーロッパのそれに、ほとんどかさならない。
女性に話をかぎれば、西洋でいちばんその名声が高かったのは細川忠興の妻であろう。丹後王国の王妃・ガラシャとして、一七、八世紀、その名はあちらでなりひびいた。その理由も、キリスト教の信仰をたもったまま、悲劇的な死をむかえたことにある。
右近ほどさわがれたわけではない。しかし、当時のヨーロッパでもっとも有名だった日本女性は彼女だと、言いきれる。ガラシャもまた、音楽劇のヒロインなどになったのだから。
日本人どうしの戦国談義にも、しばしば細川ガラシャは登場する。しかし、彼女の存在感が他の女性を上まわるわけではない。北政所や淀方のそれを凌駕することは、ないだろう。しばしば語られる女性群像の、そのひとりであるに、日本ではとどまる。
彼女の名を特権化させたヨーロッパでのあつかいと、日本の歴史語りにはずれがある。日本でも、一七、八世紀に忠興の妻は、しばしばふりかえられた。だが、同時代のヨーロッパほどには、さわがれていない。また、語り方も、ずいぶん違っている。
こういうところにこそ、国際日本研究という視座の出番はある。日本国内の日本認識と海外の日本認識が、くいちがう。そういう場合に、どのような橋わたしがありうるのか。どうすれば、両者に接点が見つけられるのか。そこに答えを見つける技が、いやおうなくためされる。それが、国際日本研究という学問のフィールドだと考える。
以上のような志もあって、国際日本文化研究センターの有志は、ガラシャ論にとりくんだ。日欧でことなる認識がいだかれた史上の人物を、総体的にとらえなおそうとしたのである。
ではなぜ、右近ならぬガラシャを、テーマにえらんだのか。そうたずねる人は、いるかもしれない。「美人論」を世に問いたい私が、まわりの同僚をまきこんでしまった可能性はある。今、この「まえがき」を書きながら、そうだったかもしれないと気がついた。企画につきあってくれた仲間には、感謝をするしかない。
細川忠興夫人、ガラシャは明智光秀の娘である。織田信長がとりもち、細川家の嫁になっている。
周知のとおり、ガラシャは最期をむかえ、自邸に火をはなった。炎のなかで、にげることなく自らの死をうけいれている。かつて、父の光秀は主君の信長をほうむった。火につつまれた本能寺で、自害を余儀なくさせている。その信長にもつうじる状況へ、ガラシャは自らをおいこんだと、見てとれる。
この時、ガラシャの脳裏には、本能寺の様子がよぎっていたかもしれない。謀反人とされた父の汚名を、自らの最期でそそごうとした可能性もある。いずれにせよ、ガラシャの死と光秀の主君弑逆は、どこかでひびきあう。
ガラシャを論じるならば、光秀にもふれておきたいところである。その人となりは、あらためてとらえなおされるべきだろう。この本では、呉座論文がその仕事をひきうけている。
光秀とその謀反については、後世の論客がさまざまな読み解きを、ほどこしてきた。空想的にすぎる解釈も、読書人のあいだではたのしまれている。呉座論文は、かかわる諸説を、その当否もふくめ史学史的に整理した。今、日本史の枠組では何が語れるのかを、しめしてくれる論文である。
戦国時代の日本にいたキリスト教の宣教師は、数多くの記録をのこしている。光秀やガラシャへの言及も、少なくない。ただ、彼らの書きっぷりには、信仰心ゆえのかたよりも見てとれる。布教の都合で、評価を左右しすぎるところがある。
じゅうらいの日本史研究は、これらの記録をあつかいかねてきた。もてあますところもあったと思う。
クレインス論文では、宣教師のそんな記述を活用する手立てが、しめされる。キリスト教徒たちの記録は、どうあしらえば史料としていかせるのかが、よくわかる。またこれを読めば、彼らのいだいていた日本観も、おのずと見えてくる。
ガラシャの同時代を知る宣教師は、信仰心ゆえに彼女を讃美した。その像を、歪曲もさせている。のみならず、一七世紀のヨーロッパでは、ガラシャ像の理想化が、極端に進行した。井上論文は、その増幅過程を見つめている。そして、そのゆがんだ理想が近代日本におよぼした感化のほどを、とらえようとする。
ガラシャは、仏教、とりわけ禅の教理につうじた女性であった。大阪の教会でも、宣教師らと宗教問答をくりひろげている。そのやりとりがもつ意味を、郭論文はとりあげる。仏教とキリスト教がむきあう宗教史上に、彼女を位置づけている。じゅうらいのキリシタン史研究に、新しい一ページをそえる仕事だと思う。
それぞれに読みごたえはある。読者諸賢にも、じゅうぶんあじわっていただきたい。
【目次】
第一章 明智光秀と本能寺の変 呉座 勇一
第二章 イエズス会士が作り上げた光秀・ガラシャ像 フレデリック・クレインス
第三章 美貌という幻想 井上 章一
第四章 ガラシャの知性と文化的遺産 郭 南燕