ちくま学芸文庫

美の菩薩、凡夫の美
阿満利麿『柳宗悦――美の菩薩』

PR誌「ちくま」7月号より、「工藝風向」店主・高木崇雄氏による書評を公開します。稀代の宗教思想家・柳宗悦が「民藝」という言葉をつくりだし、その名を冠した一群の美しいものたちを世間に示したのは、いったいいかなる意図によるものだったのか? 

 「みんげい」はわかりにくい。幾度目のブームなのか、このごろ多くの雑誌やテレビ、ウェブなどでこの言葉を目にするけれど、どうも「民芸」は、単なる消費社会における一つのブランドになってしまったようにも見える。と思えば、さも深遠な思想であるかのように扱われる「民藝」もある。いったい何が違うのか。著者は、そんな「民藝」という言葉を生み出した人、柳宗悦の思考と活動を追い、『白樺』から晩年の著作『美の法門』に至るテキストを徹底して読み込み、ついには柳のコアを捉え、今なお生きるものとして提示する。
 曰く、柳が生み出したのは、「永遠に対する憧れ・思慕」を「今生きる力」に変える力としての「美の宗教」であり、民藝とはいわば、現代における世俗的価値を代表する「美しさ」を通して宗教に至る「方便」に仮託された名である、と。ものに結実した「美」に直に接し、その美しさが生まれる原因を考えることにより、「私」は自らの至らなさ、悪人即ちこの私、という自覚を得ることができる。さらには、孤独の極みである私にすら差し伸べられている「大いなる力」の存在を知ることもできる。ここに美を通した信仰への道がある、そう僕は読んだ。
 とはいえ、著者自ら書くとおり、「美は美として自足し、宗教にとってかわろうとする」この時代、いかに美と宗教を絶えず結び合わせるか、という課題は残る。実際、民藝もまたその陥穽から逃れられているとは言い難い。ただ、本書を読むと僕は、柳のそばにその答えはあったのではないか、とも思う。例えば柳の盟友、陶芸家の河井寬次郎は『仕事のうた』という詩を残している。これは「仕事が仕事をしています 仕事は毎日元気です」からはじまり、「仕事の一番すきなのは くるしむ事がすきなのだ 苦しい事は仕事にまかせ さあさ吾等はたのしみましょう」と終わる、まさに仕事賛歌だけれども、ここで河井が用いる「仕事」とは、単なる労働の謂ではない。「仕事が仕事をしています」を裏返せば「私は仕事をしていません」であるが、怠け者になれという話でもない。では「仕事」とは何かといえば、「私」を追い出してくれるもの、ではないか。河井は、「私」が仕事を行うのでなく、「仕事が私に求める必然」こそが、仕事そのものを成立させている、と捉えた。だからこそ「私」は仕事の求めにひたすら応じ、余計な手も口も出さず、一つ一つの工程をこなすしかない。美しい物を作りたい、人から認められたい、といった「私」の出る余地を与えないのが「仕事」だ。ここには迷い悩むふつうの人、著者のいう「凡夫」が仕事の力に身を任せきることで「安心」を得た、腹の底からの喜びがある。
 著者は柳を「美の菩薩」と呼ぶ。それは決して柳を崇めよ、ということではない。菩薩とは、自分以上に他者に尽くす生き方を選ぶ人なのだ、と。確かに柳は菩薩でこそあれ、凡夫としては生きることのできない人だった。けれど、柳の生涯には、河井や濱田庄司、柳にとって「いつも私を清め励ましてくれる」存在であった浅川巧、そして著者に多くの示唆を与えた寿岳文章など、数多くの友、凡夫たちがいた。彼らが生み出すもの、選ぶもの、生きた姿の美しさこそが、柳を菩薩としてなお働かせしめた。そう考えると、「美の宗教」としての「民藝」を生きるというのは、いつか「凡夫の喜び」が「凡夫の美」に通じることを願いつつ、「美の菩薩」が灯した火を受け継ぐ一片の薪として、凡夫なりに日々仕事に生きる、ということではないだろうか。そして、そう思えることが僕自身にとっての「安心」ともなってくれる。
 柳宗悦、そして「民藝」をより開かれた存在とするとともに、現代という「末世」において信仰への道筋をひらく重要な一冊。