ちくま文庫

江戸の町の営みを支えた人びとに思いをよせて
外村大『弾左衛門と江戸の被差別民』解説

6月のちくま文庫新刊『弾左衛門と江戸の被差別民』に寄せられた外村大さんによる解説「江戸の町の営みを支えた人びとに思いをよせて」を公開します。

 私たちは、日頃から過剰なほどの情報に接して生活を送っている。もちろん、それが必ずしも事実そのままを伝えているわけではないということも、私たちはある程度自覚している。しかしそれでもやはり、自分たちが接する情報から特定の要素が欠落していたり、覆い隠されていたりすることに気がつかない場合も多々ある。

 過去の社会がどんなものであったのか、どのような人びとが、どんな暮らしをしていたのか、ということについてもそうである。時代物のテレビドラマや映画、小説などで描かれている、ある日常の風景には、おそらく実際には存在したはずの人びとがいないことになっていることがしばしばある。

 私がこれまで主に研究してきたのは在日朝鮮人の歴史である。あまりかえりみられてこなかった文献を読んでいくと、戦前に日本にやってきた朝鮮人たちはそれなりに民族文化を保持した生活を営んできたこと、工業地帯であった大阪などでは、府全体でも人口の5%以上を朝鮮人が占めていたことがわかる。とすれば、戦前の大阪の街の実像を描くとすればチマチョゴリの朝鮮女性がそこにいるのが自然である。しかし、そうした場面を描いたテレビドラマや映画はほとんどないだろう。

 近世の江戸という、当時の世界的大都市についても、同様のことがある。本書にも登場する大岡忠相や遠山金四郎らが活躍するようなテレビではおなじみの──一定の年齢層以上にとっておなじみの、というべきかもしれないが──時代劇には、被差別民衆は目に見える形では登場しない。そこに出てくるのはお侍と町人である。その身分がヘアスタイルによって可視的であったはずの非人の姿も見出せない。

 もちろん、勧善懲悪や義理人情の物語としての時代劇を楽しもうとする時に、細部にわたってリアルな江戸を描く必要はないだろう。また、観る側もそれを求めてはいない。

 だが、確かにかつてそこに生きていて、しかもその社会を支える重要な役割を果たしていた人びと──もちろん、その名前すらわからない人びとが大半であるが──のことを「いなかったこと」としてしまうのは、それらの人びとを軽んじることである。彼・彼女たちのことは、歴史を語る際に無視されてはならないはずである。

 そもそも、現代日本に生きる者が父母両系で祖先をたどっていったならば、たいがいの人は社会の底辺にいながらも、しかし子どもを生み育てて生き抜いた、被差別民衆との血縁・姻戚関係を持つはずである。「私の家系は武士で」とか「華族の血を引いている」というのは、何百人、何千人もいる「祖先」のなかでの、ある特定の人を恣意的に選んでいるだけであるのだから。そして、そもそも日本社会の基本的なルールとして、基本的人権の尊重があり、差別はあってはならないという理念を掲げているのであれば、かつて差別にさらされていた人びとの歴史は、むしろ積極的に発掘して伝えられていいはずであろう。

 しかし(いわゆる同和教育に熱心に取り組んでいる地域もあるにせよ)多くの場合、差別を受けながら生きてきた人びとの歴史、その暮らし、マジョリティとの関係についてはそう詳しく教えられることはないというのが実情ではないだろうか。義務教育や高校・大学の教育でもなかなか触れることはない。部落史を専門とする研究者に聞いたところによれば、首都圏の大学で部落問題を論じている授業はほとんどないとのことである。そのようななかで、江戸時代の被差別民衆について詳しく伝えてくれる本書の意義は大きいと言える。

 もっとも、そうした差別・被差別という問題をひとまず捨象して、本書を江戸時代の歴史についての意外な事実の紹介本として読んで楽しむことも可能である。長吏が皮革加工の技術を持つとともに公役を担い、人体にも詳しく、あの前野良沢や杉田玄白の「ターヘルアナトミア」翻訳にも影響を与えたこと、猿廻し=猿飼が馬の獣医でもあり、武家屋敷に赴いて武運長久を祈っていたこと、あるいは、女太夫や乞胸、願人などが江戸の町人たちに親しまれていたことなどは初めて知る人も多いのではないだろうか。また、そうした被差別身分の人びと、町人、武士のそれぞれの自治の社会があるとともにそれらがお互いに果たす役割を持って関係していたことや、意外に身分制にある種の流動性があったことなどは、専門的研究者ではない人びとのいだく一般的な江戸時代に対するイメージを覆すものだろう。

 しかし、当たり前であるが、本書の意義はそうした、私たちが知らなかった江戸を雑学的にあれこれ論じたところにあるのではない。そして、被差別民衆もそれなりに生きられた、〝そんなに悪い社会ではなかった江戸〟を示すところに著者の意図がないこともこの本を通読した読者は感じ取っているはずである。

 著者である浦本さんは、江戸の被差別民衆たちの社会での役割とともに、町人たちの差別意識についても触れる。そして、被差別民衆自身の生活のあり方、そのなかでの願いがなんであったかを、少ない史料に向き合って、しっかりと読み込もうとしている。そこから、浦本さんは、差別を受けていた人びとの無念の思いや、イデオロギー的な身分統制を行おうとする幕府とのせめぎ合いといった、当時の社会の矛盾をつかみとって、読者に伝えている。こうした点は、江戸称賛の雑学的な本とは明確に区別される、本書の重要な特徴となっている。江戸幕府が揺らぎ、近代国家の形成の動きが本格化する時期における弾左衛門の動き、とりわけ「醜名除去嘆願」の評価などは、被差別民衆に即した、内在的な史料解釈につとめようとする浦本さんならではの考察と評価できるのではないだろうか。

 最後の弾左衛門である集保(たねやす)の嘆願が聞き入れられず、近世の被差別民衆が周辺化されていく状況を語って本書は締めくくられている。その後の歴史を語れば、近代においても水平社などの差別からの解放を求める活動があり、戦後にできた憲法には法の下の平等の言葉も入れられた。

 しかし、周知のように、現在も日本社会に差別はなくなっていない。私や浦本さんが大学生であった頃はバブル景気に世の中が浮かれていたとよく言われるがその時期にも格差や差別はあった。浦本さんはそうした状況を変えていくために学生時代にも、卒業してからも、部落解放運動に力を注いだ。私は学部卒業後に大学院に進み歴史研究をやってきたが、その際ももうちょっとましな社会を作ろうと考えていたと思う。しかし、その後の世の中はと言えば、露骨な差別がはびこる状況すら生まれてしまった。しかも浦本さんはこの本のもととなった原稿を発表したことが一つの原因となって、信じられないようなひどい差別を経験した。

 そうした現在の日本において、この本が広く読まれることを願い、さらに浦本さんが今後も、私たちに被差別民衆が生きた社会、魅力ある歴史像をわかりやすく語ってくれることを期待したい。

(とのむら・まさる 日本近現代史)

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