ちくま文庫

笛吹きと泥棒
阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』について

ちくま文庫から31年前に刊行された歴史学の名著が、いまSNSをきっかけに脚光を浴びています。この本とは大学時代に出会ったという翻訳家・柴田元幸さんによる、思い入れたっぷりの書き下ろしエッセイを公開します。

 いま僕は現代アメリカ小説の翻訳を主な仕事としているが、何十年か前には、アメリカの古典文学、特にハーマン・メルヴィルの研究を志したことがある。そんなとき、新聞で阿部謹也氏がメルヴィルの主著『白鯨』を取り上げている文章を目にした。『白鯨』はいまでこそ「グレート・アメリカン・ノベル」などともてはやされたりするわけだが、1851年の刊行当時はその混沌ぶりに非難囂々、読者を得るどころかそれまでの読者もメルヴィルはこの本で失った。それについて阿部氏は、「流行作家が売れる本を書くことに飽きて、本当に書きたいものを書くためにあえて恵まれぬ晩年を甘受したという話は若い私には強く訴えるものをもっていた」と書いておられた(『読書の軌跡』筑摩書房、1993年、絶版)。阿部謹也といえば中世ヨーロッパの専門家と思っていたので、そういう人が、自分が専門にしようとしている分野について自分にはとても言えそうにない強烈なことを言っているのを読んで、打ちひしがれたのと励まされたのとが半々のような気持ちになった記憶がある。

 阿部氏の主著のひとつ『ハーメルンの笛吹き男』が1974年に刊行されたとき、僕は留年中の大学2年生で、すぐに買って読み、こんな面白い歴史の本があるのかと驚いた。約束どおり町の鼠を退治したのに、町が報酬を拒んだために、よそ者は笛を吹いて子供たちを山へ誘い出し、子供たちは二度と帰ってこなかった……という伝説と、13世紀にドイツの小さな町で実際に起きた集団児童失踪事件とをめぐって、膨大な資料のなかから事実と特定できる部分を丹念に抽出しつつも、いわゆる事実の確定を目的とするのではなく、捏造や改変や伝説化を促した当時の社会の力学・空気までも広い意味での「事実」として尊重し、そのすべてをまさに「歴史」として提示する。

 いま読み返してみても、まさに自分に「強く訴えるもの」に没入するその見方の広さ、発想のしなやかさに感銘を受けるし、とりわけ、社会秩序の周縁や外側に置かれた人々への共感によって、考察が無理なく豊かになっていることに賛嘆の念を覚える(この点については、ちくま文庫版に付された石牟礼道子の素晴らしい解説「泉のような明晰」に詳しい)。こういう本が長年読み継がれ、いまも版を重ねているというのはとても嬉しい話である。

 この立派な本を、すでに述べたように僕は大学2年のときに買った。平凡社から出た、装幀もたいそう素敵な本で、1800円。当時としては(少なくとも、学部生にとっては)かなり高価な本である。なので、大切にして、何度も読み返した……と、言いたいところだが、実は一度読んだだけで終わってしまった。なぜか。以下は、この本自体の見事さとは裏腹のショボい話。

 当時僕は大学の寮に住んでいて、麻雀をやったりただダラダラ夜通し喋っていたり、と昼と夜がひっくり返ったみたいな生活を(僕だけでなく、周りもみんな)していた。で、例によって夕方ごろグウグウみんなで寝ている最中に、泥棒に入られたのである。あとで判明したところ、この泥棒は寮生を装ってこの寮に住み、毎日体系的に部屋から部屋を回って盗難業務に携わっていた。しょせん貧乏学生の集団、大したものはなかっただろうから、それほど実入りのいい「職業」ではなかったのではないかと推測する。

 で、僕の持ち物で、LPレコードは無事だったが(たぶん持ち去るとき目立ちすぎるからだろう)、本とカセットレコーダーをやられた。カセットレコーダーの方が値段は高かったと思うが、心情的に残念だったのはむしろ本、なかでも(ほかはたいてい文庫本だったし)この『ハーメルンの笛吹き男』は悔しかった。悔しまぎれに、笛吹き男とこの泥棒、連れ去られた子供たちと盗まれた品々のあいだに意義深い連関関係を見出そうとしてみたが、もちろん何も見出せなかった。その後、古本屋で『ハーメルンの笛吹き男』を見かけるたびに「この本、僕のじゃないかなあ」と思ったものである。

    *    *    *    *    *    *    *    *

 最近またこの名著を思い出す機会があった。僕が訳している作家スティーヴン・ミルハウザーが、ハーメルンの笛吹き男を題材にした短篇を書いたのである。舞台は現代のハーメルン、某旅行会社が、笛吹き男が出現し子供たちが失踪した当時のハーメルンを味わうツアーを企画する。ツアーの参加者たちは、笛吹き男に導かれた子供たちよろしく、ツアーコンダクターに導かれて山の中に入っていく……細部まで緻密に思い描かれたミルハウザー作品を読み、訳していると、すぐれた小説を訳すことこそが僕にとっての「強く訴えるもの」なのだと実感する。

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