ちくま新書

「日本の伝統」はこうして作られた

大嘗祭、祇園祭、ねぶた、年越し、盆踊り、などの解説とともに、日本に古くから伝わる神祇信仰が、外来の仏教、キリスト教などの影響を受け、どのように「日本の伝統」を形作ってきたかを問い直す本書。幼いころの祭りの記憶に始まり、どのように民俗宗教の研究に携わるようになったかを振り返る「はじめに」を公開します。

私と民俗宗教

 私は昭和38(1963)年、東京の品川に生まれた。両親はいずれも地方の出身で、高校卒業後、集団就職により東京に出てきた。そこで2人は結婚し、私は戸越銀座の医院で生まれたので、いわゆる生粋の江戸っ子ではまったくない。
 小学2年まで品川の戸越銀座に隣あう大崎で育ったが、町には自分の氏子区域の居木神社のほかにも貴船神社など複数の神社があり、それぞれ神社境内での夏の盆踊り、神輿と山車が町内をめぐる秋の祭礼が行われていた。氏子区域外の神社でも、家の外から山車の 太鼓や囃子の音色が聞こえてくると、いてもたってもいられずに飛び出していって山車にのぼり、太鼓を叩いたことをよく覚えている。
 その後、一家は私が小学校3年のときに八王子に転居した。約半世紀前であるが、現在のように多くの大学が建つ以前で、新興住宅地や商業地があちこちに拓け始めた頃であった。家の周囲には田畑ばかりでなく牛のいる牧場まで広がっていた。
 生まれ育った東京の、激しい音が鳴り響く町工場。私は小学校の帰り道、工場の火花の飛び散る溶接の作業の様子を見たり、鉄屑を拾ったりするのが楽しみであった。八王子は、 漬物やコロッケの揚げた匂いの漂う町とは、まるで別世界であった。野や森、水田での昆虫採集や山の中の秘密基地づくり、川遊びに興じたのは楽しい想い出である。
 ただ、私たち家族が住んだのは山を拓いた新興住宅地で、神社も寺もなかったため、夏の祭礼も秋の盆踊りもないことだけが寂しかった。

葬式仏教と先祖供養
 
 母は新潟県の上越地方、中頸城郡中郷村(現在の上越市中郷区)の生まれで、私が小学生の頃までは、夏休み、盆の時期に母と一緒に帰省した。
 山に囲まれた村には水田と畑が広がり、清流が走り、八王子よりもさらに豊かな自然が広がっていた。その一方、化学工場が一角に建ち、住人はその煤煙や悪臭による公害に悩まされていたのを、幼い頃のことながらよく覚えている。
 母は、ほぼ毎年、実家の盆にあわせて帰省し、墓参りもした。それは、私にとっては大崎でも八王子でも経験したことのない、神秘的な体験であった。
 8月13日の夜、提灯を持って寺に付属する墓地に赴くと、墓にお供えをし、蠟燭を灯す。その火を提灯の中の蠟燭に移し、家に戻ると、今度は提灯から仏壇の蠟燭に火を移す。こうして、家に先祖が帰ってきたことになる。墓で提灯に火を灯すと、そこに先祖が入り、それを家まで連れて戻るのだと、叔父は幼い私に教えてくれた。
 私はそれを聞いて、提灯の中を思わず覗き込んだが、蠟燭以外には何も見えなかった。かといって叔父の説明を疑うわけでもなく、なんだか不思議な気持ちになったのをよく覚えている。また帰り道に、野原から虫の鳴き声が聞こえる中、人々が手にする提灯の揺れる朧な光の美しさも私の心の中に鮮明に残っている。
 正月や盆の時期には、帰省客による高速道路や飛行機・新幹線の混雑が必ず報じられるように、一年というサイクルの中で行われる信仰的な営為は、日本中で現在も続いている。
 このように、なぜその時期にそうした行事を行うのか、理由を説明されずとも、日本に生まれ育った人であれば、多くの人々が感じるであろう安心感や納得感、また家族や地域において、人々と思いを共有する幸福感に支えられた慣習的な営みが、民俗的な宗教や信仰なのである。

仏教国日本へ
 
 檀家檀那制度が敷かれ、日本人のほとんどが仏教徒となったのは、江戸時代のはじめである。地域による差はあるものの、町村の寺院は、葬式や盆の棚経、法事の折のみならず、寺の改修を名目とした布施を求めるなど、檀那寺は地域において優越的な地位を獲得するようになった。
 仏教は、元々はインドの釈尊の教えに始まるが、日本の仏教は漢訳された経典による中国起源の宗教である。古代に鎮護国家を目的として朝廷主導で移入され、奈良や京都に大寺院が建立された。その後、平安時代から鎌倉・室町時代にかけて、死後の浄土への希求や、地獄への恐怖の観念が、貴族から民衆まで拡大していった。
その後、江戸幕府は日本人全員が特定宗派・寺院を檀那として所属する寺請制度を敷いた。こうして仏教国日本ができあがっていったが、その背景には、ヨーロッパからのキリスト教の伝来があった。
 中世末期、ヨーロッパの大航海時代、南米を征服したポルトガルやスペインは、インド・東南アジア、中国南シナ海・東シナ海を経て、極東の日本にまで到達した。海賊でもあったヨーロッパ商人とともに宣教師が上陸し、キリスト教が九州や畿内を中心に全国に広まった。
 鉄砲や弾薬などの最新兵器、あるいはヨーロッパの織物やワインなどを珍重した大名たちは、キリスト教の布教に寛容であった。しかし、スペインによるフィリピン支配、南米での原住民の虐殺や占領を知った日本は、宣教師たちに中国大陸・日本列島に対する領土的野心があることを警戒し――日本支配のための軍備工作までしていた宣教師がいたことは史実である――、禁教に転じ、宣教師や日本人信徒の処刑、国外追放を行い、鎖国政策に転じたのであった。
 こうして、ヨーロッパによる日本進出を阻止する政策の一環として、人々に自分がキリシタンではないことを証明させるために、寺請制度という日本独自の仏教が形成されたである。

世界の中の日本の民俗宗教
 
 現在、我々が葬儀や法事を檀那寺に依頼するとき、このような歴史を考えることはまずない。しかしながら、習俗化しているこうした営みは、日本の風土や日本人の心性から自然に形成されたものではけっしてない。世界史的な動向と関わりのなかで、歴史的な変革を経て形成されたのである。
 漢字経典をもとにする日本の仏教は中国を起源とする。しかしながら、日本のような仏教、寺院のあり方は、中国においては少なくとも現在、見られない。日本人には『三国志』でもお馴染みの、商売繁盛の神となった関帝や、航海安全の女神媽祖などを祀る「廟」、あるいは同族の祭祀の施設である「祠堂」などが、中国の地域にある宗教施設としては一般的である。
 廟では観音や弥勒など仏教の仏・菩薩が祀られることも少なくなく、インドから伝えられた仏教と、中国の民俗的な神霊が融合した信仰を見ることができる。起源となった中国仏教の現在の様子と比べても、各地域に寺院が建ち、人々のほとんどが檀家として所属するといったありかたが、日本仏教に独自のものであることがわかる。
 先に述べたように、日本に生まれ育った人であれば、多くの人々が感じるであろう安心感や納得感を共有する、生活に根差した信仰、それにともなう幸福感は、恋愛の成就や、受験の合格、会社での昇進などとは異なるものである。
 氏神や先祖に捧げる踊り、芝居などの娯楽をともなう四季折々の祭祀や、成長の節目を祝う儀礼。それらは、家族や地域など日々の生活をともにする人々と、一年間というサイクル、もしくは生と死という一生のサイクルとも関わる共同体の更新の中で、喜び、祝福や悲しみを共有する営みなのである。本書では、仏教伝来以前からの神祇信仰も視野に入れつつ、日本の民俗宗教について、 外国との交渉も含む歴史的な変容や、生活や社会の場となる環境との関わりに注目して、 信仰のあり方を考えていく。
 

 

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