単行本

人間的な重みから解放される
村田沙耶香『変半身』書評

芥川賞作家・村田沙耶香と岸田戯曲賞作家・松井周が3年越しで挑んだコラボプロジェクト『変半身』。舞台版(http://samplenet.info/inseparable/)を手がけた松井さんに小説版の魅力を読み解いていただきました。PR誌『ちくま』12月号より転載します。

 村田沙耶香さんと僕が対談したときに「一緒にニセの祭をつくるワークショップをやりましょう!」と盛り上がったところからinseparableという企画は始まった。YさんとMさんを含めた四人でチームを作り、『変半身』という作品の準備を三年前から進めてきた。同じ設定を(ある程度)共有し、村田さんが小説を書き、僕が舞台作品を作るということにした。ニセの祭ワークショップのはずが、いつの間にか、秘祭が行われている架空の島の物語に変わり、ついには単行本発売と舞台上演ということにまでつながった。
 小説版「変半身」の「Ⅰ」のパートはほとんど二〇一八年一月に行ったリーディング(語り手:青柳いづみ@城崎国際アートセンター)のときには出来上がっていたものだ。上演場所に一週間ほど合宿して僕も同時期に戯曲のごく一部を書いていたが、村田さんは短編小説並みの分量を、腱鞘炎になりながら書ききった。
 リーディング用の小説は、島に住む中学生たちの残酷な青春の物語であり、彼らが体験する受難の顛末を描いていた。読むだけで息苦しくなるほどのエモーショナルな展開を演出するにあたって、僕も興奮のあまり「最悪な拷問をされていることをイメージして読んでみて!」と青柳さんに要求し、その場ではポカーンとされたように思ったが、本番での青柳さんは観客をぐいと惹き込む圧巻のパフォーマンスをした。
 それから一年以上経ち、「Ⅱ」と「Ⅲ」のパートは今年の夏から秋にかけて書かれたものだ。これが予想を裏切られるというか、「Ⅰ」の先にこんな世界が待っているとは思ってもみないような展開だった。「Ⅱ」では歴史館に展示されている島の歴史も「Ⅰ」とはまるで違う。島民たちが、以前は存在しなかったはずの「ラー油を溶かしたお湯の味」がする「赤いお茶」をすすっていたりもする。「Ⅲ」に至っては、そもそも人間という生き物すらフィクションではないかという領域にまで達している。いや、この小説の文字がもはや文字ではなく、壁画に描かれたマークのように空目(?)されてしまう可能性もある。なのに、実験的ではなく、小説内のルールに収まってもいる。何なのだろう? この小説は……。
 これはきっと村田さんの持つバネのような力がそうさせているのかなあと思った。「Ⅰ」で縮んだバネが反発して「Ⅱ」の高さに伸び上がり、さらに「Ⅲ」の高みにまで到達する感じだ。
 というのも、村田さんは二次創作というものが苦手らしい。オリジナルの登場人物に思い入れが強いあまり、自分の筆では彼らが動かなくなるのだと言う。だから、やっぱりこの企画の設定を共有するというところに、村田さんは二次創作に似た窮屈さを感じたのかもしれない。それがもしかしたら「Ⅰ」の部分だ。そこからの反発で「Ⅱ」と「Ⅲ」が書かれたとも読める。
 でもよく考えると、僕の戯曲だって最初に決めた設定からはずいぶんと違う方向にジャンプしているし、もともとこの企画は、どこまで脱線しても構わないのだ。きっと、二人とも人間の「ふるまい」そのものに疑いを持っている部分は共有している。だから、これは企画への反発というよりも、村田さんが本来、世の中に対して持っている疑いが噴き出していると言えるだろう。その部分が「Ⅱ」と「Ⅲ」に描かれているのだと思う。
 村田さんはよく「私たちは誰かの行動や価値観をトレースして(=なぞって)生きている」という趣旨の発言をする。実際今回の小説においても、そのモチーフがベースになっている。つまり、もし私たちの現実が誰かの二次創作で創り上げられたものであるとしたら、それに従わなくてはならないとしたら、そんな世界はとても生きづらく、耐えられないと村田さんは反発している。というか、反発しつつも、知らない間にそれに従っているという間抜けな反復の中で私たちは生きていることを暴き出す。
 私たちは狂人たちに囲まれたトレース地獄に生きている。ひょっとしたら、それも悪くないと感じてしまうのは、登場人物たちの生態が吹き出すほど笑えるからだ。彼らと共に行こうという気にさせられる。少し身体が軽くなる感じ。人間的な重みから解放される。それはきっと大事なことだと思う。