ちくま学芸文庫

近代の十戒
『増補 責任という虚構』自著解説

小坂井敏晶氏の代表作『責任という虚構』が増補版としてちくま学芸文庫より刊行されました。これに合わせ、著者よりPR誌「ちくま」へご寄稿いただきました。どうぞお読みくださいませ。

 著名人が違法薬物で検挙され、マスコミが一斉に騒ぎ立てる。そしてテレビカメラの前で容疑者が謝罪する。この儀式は何を意味するのか。
 麻薬・売春・同性愛・ポルノグラフィ・堕胎・近親相姦などは「被害者なき犯罪」と呼ばれ、処罰の是非が論議されてきた。麻薬や覚醒剤は危険だから生産者や売人は厳しく取り締まるべきだ。だが、タバコやアルコールと同様、害を受けるのは使用者である。魔がさして薬物に手を出し中毒になれば、患者であり被害者ではないか。こう考えるヨーロッパ諸国ではメサドンなど代用品を中毒患者に無償供与している。自主的に行う売春のどこが悪いのか。罰すべきは売春を営むマフィアだろう。同性愛は各自の性的指向として認められ、処罰する国はほとんどなくなった。だが、過去には英米でも重罪だった。ポルノグラフィへの対応も同じだ。公序良俗に反するからと法律で禁止する方針もあれば、見るも見ないも各人の勝手だという意見もある。堕胎は宗教を離れ、女性の自己決定権として定着した。結婚は認められないが、同意の下での成人間の近親相姦自体は欧州だけでなく、日本・中国・イスラエルなど多くの国で合法だ。さらには自らの臓器を販売する自由も論議される。
 当事者の意向とは別に、善悪を社会が定める集団主義と、他人の自由を侵害しない限り、行為自体には是も非もないという個人主義が対立する。どちらが正しいのか。しかし実は両者はどっちもどっちであり、虚構に頼って秩序を維持するのはヨーロッパも日本も同じだ。なぜ近代西洋に人権思想が生まれたのか。
 人間はブラックボックスを次々とこじ開け、中に入る。だが、内部には他のブラックボックスがまた潜んでいる。探索し続けても最終原因には行き着けない。そこで、最後の扉を開けた時、内部ではなく外部につながっているという逆転の位相幾何学を考え出した。この代表が神だ。正しさを証明する必要もなければ、疑うことさえ許されない外部が世界の正当性を担保する。
 神の死を迎えた近代は、自由意志と称する別の根拠を個人の内部に発見する。だが、これは神の擬態だった。外部に根拠を投影しなければ、根拠は個人に内在化されざるをえない。すると私の行為の責任を問うためには、行為の原因が私自身でなければならない。だから個人の自由に西洋はこだわる。個人主義は、神を殺したがゆえに現れる仮象だ。自由意志はデウス・エクス・マキナであり、人間を超越する外部を捏造した前近代と同じ論理が踏襲されている。
 拙著『増補 責任という虚構』ではホロコースト・死刑・冤罪の分析を通して、自由意志のイデオロギー性と、近代が隠してきた秩序維持の正体を炙り出した。人間は自由だから、その行為に責任を持たねばならないと我々は信じる。だが実は逆に、責任を誰かに課す必要があるから、人間は自由だと社会が宣言するのである。自由は虚構であり、見せしめのために責任者を捏造して罰し、怒りや悲しみを鎮める政治装置だ。
 今回追加した「補考」は平等概念に射程を広げ、正義論の罠を考察した。近代は自由と平等をもたらしたのではない。不平等を隠蔽し、正当化する理屈が変わっただけだ。自由に選んだ人生だから貧富の差に甘んじるのではない。逆だ。格差を維持するために、能力の低い者や努力しない者の不幸は自業自得だと社会が宣告する。メリトクラシー(能力主義)の普及を通して学校制度は不平等を意味づけ、近代個人主義社会の安定に寄与する。正義論の正体は神学であり、自由と平等は近代の十戒である。
 どんな真理も時代と社会に固有な世界観にすぎない。それにもかかわらず、なぜ普遍性の衣を纏うのか。虚構として根拠が成立すると同時に、その虚構性が人間の眼に隠される。それはどの国、どの時代でも変わらない。

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