ちくま学芸文庫

「アレクサンドロス伝説」のひろがり
伝カリステネス『アレクサンドロス大王物語』文庫版解説

中世ヨーロッパにおいて「聖書に次いで読まれた」とされるアレクサンドロス・ロマンスの中核となるのが、伝カリステネスによる『アレクサンドロス大王物語』です。アレクサンドロス大王は、その生涯において歴史に巨大な足跡を残しましたが、死後にもそのイメージは大きく広がっていきました。多くの人の想像力を刺激し続けた大王の伝説とは如何なるものだったのでしょうか。古代ギリシア史・マケドニア史の研究者である澤田典子先生(千葉大学教授)に解説いただきました。

 

 わずか一〇年で前人未到の大征服を成し遂げ、三二歳の若さで世を去ったアレクサンド ロス大王は、人々を惹きつけてやまない、魔力のような輝きを放つ世界史上稀有の存在で ある。そんなアレクサンドロスの生涯は、まさに無数の神話や伝説に彩られている。当時の知られうる限りの世界を征服した彼の突然の死は、人々の想像力を限りなく刺激した。 アレクサンドロスの短くも華々しい生涯に魅せられた後世の人々は、アレクサンドロスに まつわる多様な伝説を紡ぎ、彼のイメージはとめどもなく増幅していった。アレクサンド ロスをめぐる言説は様々なコンテクストで無限に再生され、彼は文学・芸術・政治・歴史研究などのあらゆる領域においてシンボルとなり、現代に至るまで強靱な生命力をもって 生き続けている。
 そうした現代まで続く巨大な「アレクサンドロス伝説」の中核をなすのが、本書『アレクサンドロス大王物語』に発する空想的な伝奇物語群「アレクサンドロス・ロマンス」である。


アレクサンドロス・ロマンス


『アレクサンドロス大王物語』の大筋は、前三世紀頃にすでにできあがっていたらしい。 死後数百年が経過する間に生まれたアレクサンドロスにまつわる様々な伝説を取り入れて物語はさらにふくらみ、最終的に後三世紀にエジプトのアレクサンドリアでまとまった形に編纂された。ある写本で誤ってアレクサンドロスの御用史家であったカリステネスが作者とされていたことから、「伝カリステネス」の名を冠して呼ばれている。
 この大衆向けの空想物語のなかで、アレクサンドロスは天空を飛翔したり、黄泉の国に 入って潜水艦で深海に潜ったり、生命の泉を訪ねたり、はたまた巨人の国や無頭人の国を 探訪したり、と奇想天外な冒険を繰り広げ、シチリアやイタリア、アフリカにまで遠征する。物語は、日本の義経伝説のように、人々の追憶のなかでとめどもなく枝葉をひろげ、 その流行にともなって、アレクサンドロスの名前とイメージはアジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸にまたがる広い地域に深く浸透していった。アレクサンドロス・ロマンスは、 北はアイスランドから南はエチオピア、西はイベリア半島から東は東南アジアにまで流布し、一七世紀までに二四カ国語に翻訳されて八〇種以上の異本(一説には、三五カ国語、約二〇〇種、とも)が生まれたという、まさに世界文学である。写本から写本へと転写が繰り返され、各国語への翻訳が重ねられるなかで、物語は自由に潤色や改竄、翻案がなされ、 諸地域のローカルな伝承を取り入れて、各地で地域色豊かな独自の発展を遂げた。
 一九世紀以降、文献学の立場から、アレクサンドロス・ロマンスを構成する膨大な物語 群と写本(校訂本)の複雑な系統関係の解明が進められてきた。通常、写本は四系統に大別され、α・β・γ・δのギリシアアルファベットを冠して、α本、β系などと呼ばれる (写本の系統に関しては諸説あり、ε・λを加えて五系統、もしくは六系統とする見方もある)。 これらの系統の違いによって、物語の展開やアレクサンドロスの遠征の順序なども大きく異なり、δ本ではアレクサンドロスが中国にまで遠征したとされるなど、特定の系統にしか見られないエピソードもある。本書の底本となっているβ本は、原本に最も近いとされるα本の内容をより史実に近づけようとした改訂版である。
 一〇〇〇年以上にわたって絶大な人気を博したアレクサンドロス・ロマンスは、まさし く世界的なロングセラーである。近世に至るまで、人々はもっぱらアレクサンドロス・ロマンスを通じてアレクサンドロスを知り、空想的な伝奇物語の主人公として、アレクサン ドロスを思い描いていた。


「歴史的」なアレクサンドロス伝


 こうした空想的なアレクサンドロス・ロマンスと対照的に、「歴史的」なアレクサンドロスを描いているとされるのが、ローマ時代に著されたアレクサンドロス伝である。
 アレクサンドロスについての史料は、彼とは三〇〇年以上も隔たったローマ時代のものがほとんどで、まとまった形で現存しているアレクサンドロス伝としては、ディオドロス の『歴史叢書』(全四〇巻)の第一七巻、ポンペイウス・トログスの『フィリポス史』(全四四巻。後三世紀のユスティヌスの抄録によってのみ知られる)の第一一・一二巻、クルティウスの『アレクサンドロス大王伝』全一〇巻(最初の二巻は現存せず)、プルタルコスの 『英雄伝』の一篇である『アレクサンドロス伝』、アリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』全七巻、の五篇の作品があり、これらの作家は「アレクサンドロスの歴史家たち」 と呼ばれる。五篇の作品のうち、ディオドロス、プルタルコス、アリアノスによるギリシア語の作品はアレクサンドロスを「英雄」として称え、他方、ポンペイウス・トログスとクルティウスによるラテン語の作品はアレクサンドロスの人間的堕落を強調し、彼を「暴君」として非難する論調が顕著である。
 これらの作品はいずれも、カリステネス、プトレマイオス、アリストブロス、オネシクリトス、ネアルコス、クレイタルコスといったアレクサンドロスと同時代の著作家(「失われた歴史家たち」と総称される)の作品を参照して執筆されたものだが、そうした同時代作品は、今日ではほぼ全て失われている。そのため、現存する五篇が、これらの同時代作家の作品のいずれに依拠したのかを個々の記述ごとに丹念に解明し、それぞれの記述の信憑性を逐一検証する作業が必須となる。近代歴史学が確立した一九世紀以来、歴史家たちは、こうした史料批判に基づく原典研究(Quellenforschung)を精力的に進めてきた。そうしたなかで、「失われた歴史家たち」のうち信憑性が高いとされたプトレマイオスとアリストブロスに依拠するアリアノスの作品がアレクサンドロス研究の「正史」として別格に扱われ、とりわけ信憑性が低いとされたクレイタルコスに依拠するディオドロス、ポンペイウス・トログス、クルティウスの作品は歴史的信頼性の低い「俗伝(Vulgate)」とされて、明確に線引きがされるようになった。
 しかし、ここ数十年の研究のなかで、信憑性が高いとされたプトレマイオスの作品にも、自分の手柄を誇張し、ライバルの功績を軽視するなどの偏向や歪曲が含まれること、ディオドロス、ポンペイウス・トログス、クルティウスは、クレイタルコス以外の「失われた歴史家たち」にも多く依拠していることなどが明らかになり、こうした「正史」「俗伝」という単純な二分法は大きな修正を迫られている。
 これらの「アレクサンドロスの歴史家たち」の作品が近代以降のアレクサンドロス研究 の中心となってきたが、こうしたローマ時代の「歴史的」な作品はその後の時代にほとんど受け継がれず、ルネサンス期における「再発見」までほぼ顧みられなくなる。代わって爆発的にひろまったのがアレクサンドロス・ロマンスであり、とりわけイスラーム世界と 中世ヨーロッパにおいて絶大な人気を誇った。 


イスラーム世界のアレクサンドロス


 アレクサンドロスが征服したペルシアでは、ゾロアスター教徒たちの間で「邪悪な侵略 者」としてのアレクサンドロスの記憶が受け継がれていた。三世紀、ササン朝ペルシアの創始者アルダシール一世は、ペルシア帝国再興のプロパガンダとして、そうした「邪悪」 なアレクサンドロスの記憶を利用する。アカイメネス朝ペルシアの後継王朝を自任するササン朝は、そのアカイメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロスを「悪魔」に仕立て上げることによって、アカイメネス朝との連続性を主張したのである。また、ササン朝はローマ人をアレクサンドロスの子孫と見なしていたため、彼の悪魔化は、ローマとの抗争においても有効なプロパガンダとなった。この時期、アレクサンドロスは、ゾロアスター教の悪神アンラ・マンユが善を滅ぼすために送り込んだ「三大悪王」の一人となり、ペルシアとゾロアスター教に対して三つの大罪(聖職者の惨殺、聖典の焼尽、王権の分割)を犯した、邪悪で憎むべき侵略者とされた。
 こうした悪魔化の一方で、六世紀以前にアレクサンドロス・ロマンスのδ本がギリシア 語からパフラヴィー語(中世ペルシア語)に訳され、空想物語の英雄としてのアレクサンドロスも徐々にひろまっていった。六世紀初めにはパフラヴィー語訳からシリア語訳がつ くられ、のちにアラビア語、ペルシア語、エチオピア語にも訳されて、中東世界の各地に広く浸透していくことになる。
 七世紀にササン朝が新興のイスラーム勢力に滅ぼされると、アレクサンドロスを「悪魔」とするササン朝のプロパガンダが後退し、代わって、アレクサンドロス・ロマンスの英雄としてのアレクサンドロス像が浮上する。かつての否定的なイメージが薄れ、アレクサンドロスは「悪魔」から一転して「英雄」「聖人」へと変貌を遂げた。広大な領土を席巻して帝国を打ち立てたイスラーム教徒たちは、彼らの聖戦(ジハード)をアレクサンドロスの遠征に重ね合わせ、アレクサンドロスを「世界征服者」の原型として理想視したのである。
 イスラーム世界では、アレクサンドロスは『コーラン』の「洞窟」の章に登場する英雄 「二ズ・ル・カルナイン 本角の人」と同一視され、「二本角のアレクサンドロス」と呼ばれて神聖視された。『コーラン』では、「二本角の人」は、ゴグ(ヤージュージュ)とマゴグ(マージュージュ)の襲撃を巨大な鉄の壁を築いて防いだ守護者として描かれている。このゴグとマゴグは、神に逆らう蛮人として『旧約聖書』の「エゼキエル書」や『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」に登場しており、この伝承が「アレクサンドロス・ロマンス」と融合し、イスラーム世界にも浸透したのである。イスラーム世界では、アレクサンドロスがゴグとマゴグを封じ込めるために長城を築いたという逸話が広く流布し、九世紀半ばには、アッバース朝第 九代カリフのアル・ワーシクがアレクサンドロスの長城を検分するために大規模な調査団 を派遣したという。
 こうした英雄・聖人としてのアレクサンドロスのイメージは、すでにユダヤ教やキリスト教の説話のなかに見られたが、イスラーム教徒たちは、アラビア半島に浸透していたユ ダヤ教・キリスト教の伝承からアレクサンドロスの聖なるイメージを取り込み、彼をイス ラーム教の布教者・擁護者に仕立て上げていったのである。キリスト教やイスラーム教と いう世界宗教のなかにこうして聖人として取り込まれたことも、「アレクサンドロス伝説」が永遠の命を得た要因と言えよう。
 イスラーム世界では、九世紀初頭からアッバース朝のもとでアリストテレス哲学のアラ ビア語への翻訳事業が大々的に進められたが、アリストテレスがアレクサンドロスに宛て たとされる手紙(後世に創作された偽作と考えられている)は、それに先立って八世紀前半からウマイヤ朝のもとでアラビア語に訳され、広く流布していた。イスラーム世界において「第一の師」として称揚されたアリストテレスは、アレクサンドロスに知を授けた偉大な賢者とされ、アレクサンドロスはその偉大な師から教えを受けた哲人王として神聖視された。二人は、賢者と賢王、大哲学者と大征服王という理想の師弟としてイスラーム世界に定着し、イスラーム世界における「アレクサンドロス伝説」の拡大にいっそう拍車がかかることになった。
 九世紀のディーナワリーの歴史書『長史』や一一世紀初頭のフィルダウスィーの叙事詩 『王書(シャーナーメ)』には、アレクサンドロスの出生譚が現れる。アレクサンドロスの母はペルシア王との間にアレクサンドロスを生んだとされ、アレクサンドロスはダレイオス三世の異母兄弟としてペルシアの列王伝に取り込まれている。エジプトのアレクサンドリアで生まれた『アレクサンドロス大王物語』においてアレクサンドロスがエジプト最後のファラオであるネクタネボス(本書ではネクテナボン)の息子にされてエジプトの歴史に取り込まれたのと同様に、今度はペルシアの正統な王としてペルシアの歴史に取り込まれたのである。
 イスラーム世界にはローマ時代の「アレクサンドロスの歴史家たち」の作品はほとんど 伝わらず、ペルシアの宮廷詩人たちはもっぱらアレクサンドロス・ロマンスを素材として 韻文の『アレクサンドロスの書(イスカンダル・ナーメ)』を著した。なかでも一二世紀のニザーミーの『アレクサンドロスの書』では、アレクサンドロスはチベットを越えて中国やロシアにも遠征を果たし、征服者から哲学者に成長して、さらには預言者の域にまで達している。一二世紀のタルスースィーの『ダーラーブの書』など、アレクサンドロスを主人公とする散文作品も続々と生まれ、こうした作品はアレクサンドロス・ロマンスをさらに自由に翻案し、ロマンスからかけ離れた奇想天外な物語として独自の発展を遂げた。
 こうして、イスラーム世界においてアレクサンドロスはイスラーム教の敬虔な信徒、布教者、聖戦の闘士、ペルシアの君主、地の果ての探求者、哲人王、預言者といった様々な姿で定着していくが、イスラームの東漸にともなって、中央アジアや東南アジアへもアレクサンドロス・ロマンスは広く浸透していった。中央アジアでは、「イスカンダル(アレクサンドロスのアラビア語名)」がつく地名や人名が多く見られ、アレクサンドロスの後裔を自称する王族や首長たちが今日に至るまで絶えない。一五世紀にマレー半島南部に栄えたマラッカ王国では、アレクサンドロスを王家の祖とする建国神話が語り継がれていた。インドではイスカンダルがヒンドゥー教の軍神スカンダに変貌を遂げた、という説もある。 さらに、「アレクサンドロス伝説」は中国にまで伝播したらしい。宋代の地理書『諸蕃誌』や明代の百科事典『三才図会』には、「徂葛尼(そかつに)」「狙葛尼」についての記述が現れ、これはアラビア語の「ズ・ル・カルナイン」の音訳であり、『コーラン』に登場する「二本角の人」のことであると考えられている。
  

ヨーロッパのアレクサンドロス

 
 中世ヨーロッパにおいても、アレクサンドロス・ロマンスは広く親しまれ、アーサー王伝説と並んで絶大な人気を博した。ヨーロッパ全域にアレクサンドロス・ロマンスがひろ まる契機となったのは、四世紀前半のユリウス・ウァレリウスによるα本のラテン語訳『マケドニア人アレクサンデルの偉業』と、一〇世紀のナポリの大司教レオによるδ本のラテン語訳『アレクサンデル大王の誕生と勝利』である。とりわけ、レオのラテン語訳を大幅に書き換えた改訂版『戦史』が一二世紀以降ヨーロッパ各国の俗語に訳され、爆発的に流行した。本書にも訳出されている「アレクサンドロスのアリストテレス宛の手紙」(七~八世紀につくられた偽作)も、各国の俗語に訳されて広く浸透した。アレクサンドロスがインドで見聞きした驚嘆すべき出来事をアリストテレスに語るこの手紙は、中世ヨーロッパにおける「東方の驚異(mirabilia)」伝説の源となった。
 アレクサンドロス・ロマンスは聖書に次いでよく読まれたといわれ、アレクサンドロス は「九偉人」や「古代世界の四大王」の一人にも数え入れられている。彼は多くの詩人たちの想像力をかき立て、パリのアレクサンドルによる『アレクサンドル物語』やドイツの司祭ランプレヒトの『アレクサンダーの歌』など、数々の叙事詩の題材となり、絶大な人気を誇った。こうした叙事詩のなかでアレクサンドロスは騎士の鑑として理想視され、敬虔なキリスト教徒、宣教師、錬金術師、占星術師など、様々な姿で現れている。キリスト教文化の影響を受けてロマンスの脚色や翻案が進み、「地上の楽園」を探しに行くなどの新しい逸話も生まれ、十字軍の時代には「聖戦の闘士」としてのアレクサンドロスのイメージがいっそう強まっていった。天空飛翔や深海潜水など、ロマンスにおける様々な逸話が写本挿絵の題材として親しまれ、とりわけ、グリフォンの背に置かれた籠に乗ってアレクサンドロスが空に舞い上がる天空飛翔の場面は、ステンドグラスやレリーフ、モザイクなどの教会建築の装飾モチーフとしてヨーロッパ各地で流行した。
「一二世紀のルネサンス」と呼ばれる古典復興期には、アリストテレスの作品の「再発 見」により、アリストテレスの弟子としての哲人王という新たな顔がアレクサンドロスに加わった。さらにこの時期、ローマ時代のクルティウスの作品も「再発見」され、「暴君」としてのアレクサンドロス像もヨーロッパに浸透していく。中世ラテン叙事詩の最高傑作と言われるシャティヨンのゴーチェの『アレクサンデルの歌』はクルティウスの作品を主要な典拠としており、アレクサンドロスを英雄的に描く一方で、彼の飽くなき名誉欲を厳しく非難している。この作品は各国の俗語にも翻訳されてヨーロッパ中で広く読まれる大ベストセラーとなり、アレクサンドロスのイメージの幅をさらにひろげることになった。
 一五世紀になると、ディオドロスやプルタルコス、アリアノスの作品も「再発見」され、 アレクサンドロス・ロマンスに代わってこれらの「アレクサンドロスの歴史家たち」の作品がひろまるようになる。そうしたなかで「歴史的」なアレクサンドロスを解明しようとする試みが始まり、空想的なロマンスは下火になっていく。美術においても、ロマンスを題材としたこれまでの写本挿絵や教会建築の装飾に代わって、ドイツのアルブレヒト・アルトドルファーやフランスのシャルル・ル・ブランをはじめとする多くの画家が、イッソスの戦いやガウガメラの戦いなど、アレクサンドロスの生涯における「歴史的」な出来事を題材とする名画を残した。
 こうして一五世紀以降、ヨーロッパではアレクサンドロス・ロマンスの影が次第に薄れていくが、オスマン帝国の支配下にあったギリシアでは、ロマンスの英雄としてのアレクサンドロスが人々の心をとらえ続けた。一七世紀末にロマンスのγ本の近代ギリシア語訳『フュラダ』が呼び売り本として出版されて長く流行し、人々はアレクサンドロスをギリシア正教の聖人、ギリシアの自由の闘士として思い描いた。こうした英雄としてのアレクサンドロスは、オスマン帝国の支配下にあるギリシア人に昔の輝かしい栄光を思い起こさせたのである。一八世紀末には、ギリシア独立に向けての運動のなかでアレクサンドロスはシンボルとなり、それ以降現在に至るまで、誇るべき民族的英雄としてギリシア人の心のなかに強く生き続けている。一九九一年にマケドニア共和国(現・北マケドニア共和国)がユーゴスラビアから分離独立して以来、同国とギリシアの間で繰り広げられた国名論争において両国とも「アレクサンドロス」を自国のシンボルとして激しく奪い合ったが、そうしたなかでギリシア人が過剰とも言える反応を示したのは、アレクサンドロスを民族的英雄と仰ぐこうしたギリシア人の長年の国民感情に由来する。
 このような民族のアイデンティティのシンボルとしてのアレクサンドロスの利用は、前述のササン朝においても見られるが、これはまさに、アレクサンドロスのイメージが後世の人々にとって常に都合のよい形で継承されうる柔軟性を持っていたからである。アレクサンドロスは私たちの思う姿で立ち現れ、その時々の風潮のなかで、英雄にも聖人にも悪魔にもなった。そうしたイメージの柔軟性ゆえ、後世の人々はその信条や理想、世界観を自分たちに都合のよい形でアレクサンドロスに投影し、歴史的には彼と無縁の地域の人々でさえも、自らの権威やアイデンティティのシンボルとしてアレクサンドロスを利用することができた。こうして、「アレクサンドロス伝説」は永遠の命を得ることになったのである。
 そしてまた、こうしたシンボルとしてのアレクサンドロスは、そのイメージを育み、操作した人々の信条や理想、世界観を映し出す鏡の役割も果たす。人々はなぜアレクサンドロスの伝説を受容し、操作したのか。人々は彼にどのような象徴性を見出したのか。アレクサンドロスのイメージの変容を追うことによって、それを探ることができる。「アレクサンドロス伝説」からアレクサンドロス自身の「史実」を抽出するのは極めて慎重にならなければならないが、彼のイメージの変容は、それを語り継ぎ、育んでいった人々についての確かな「史実」を教えてくれるのである。
 

「歴史」と「伝説」

 
 近代歴史学が確立した一九世紀以来、史料批判に基づく原典研究を中心とする実証的なアレクサンドロス研究が進められるなかで、史実と伝説を峻別しようとする立場から、アレクサンドロス・ロマンスは「アレクサンドロスの歴史家たち」の作品とは明確に区別され、歴史研究の史料として目を向けられることはなかった。
 近年、アレクサンドロスの歴史研究もアレクサンドロス・ロマンスの研究もますます活況を呈しているが、かつてのように二つの研究分野は必ずしも峻別されておらず、重なり合う部分も大きくなっている。その背景として、歴史学において歴史認識や表象といった問題により関心が向けられるようになったことがある。アレクサンドロス研究においても、従来のように、アレクサンドロスが何をしたか、ではなく、アレクサンドロスが人々にどのように思われていたか、人々にとってアレクサンドロスとは何だったのか、についての関心が高まっている。アレクサンドロスに征服された地域で独自の発展を遂げたアレクサンドロス・ロマンスは、まさに格好の研究材料となる。
 さらにまた、「アレクサンドロスの歴史家たち」の作品とアレクサンドロス・ロマンスを明確に区別することはできないという認識が高まってきたことも、その背景としてあげられる。「失われた歴史家たち」のなかでも、体長六五メートルものインドの大蛇や一万人もの僧を木蔭に宿すことのできる巨木について語っているネアルコスやオネシクリトス、 空想的な物語を多々伝えているクレイタルコスの記述は、ロマンスとさほど変わるところはない。ローマ時代の「アレクサンドロスの歴史家たち」は、そうした「失われた歴史家たち」の作品に依拠して執筆する際、「物語」と「歴史」を決して区別してはいないのである。そして何よりも、近年のアレクサンドロス研究のなかで、「アレクサンドロスの歴史家たち」の作品こそがローマ時代の「物語」であることが強調されるようになったのも大きい。欧米のアレクサンドロス研究におけるここ十数年の大きな変化は、歴史家たちが一九世紀以来の伝統的な史料批判に基づく実証研究の限界性を認識し、ローマ時代の史料の「歪み」により自覚的になったことにある。ローマ時代の作品から私たちが知りうる「アレクサンドロス」は、決して「歴史的」なアレクサンドロスではなく、ローマの文人がローマの読者に向けて書いた「ローマの創造物」にすぎないのである。そうした認識が、文学と歴史叙述の境界、という古くて新しい問題への関心の高まりとあいまって、「アレクサンドロスの歴史家たち」の作品とアレクサンドロス・ロマンスを区別する意識を薄れさせたと言えるだろう。「アレクサンドロスの歴史家たち」による五篇の作品の間に「正史」「俗伝」という明確な区分線を引き得ないのと同様に、「アレクサンドロスの歴史家たち」の作品とロマンスの間にも、明確な区分線を引くことはできないのである。
 アレクサンドロス・ロマンスの研究は、アレクサンドロスの歴史研究の新たな可能性を示すものと言えよう。

 

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