ちくま学芸文庫

「経験的」な知の系譜を一望する
『英米哲学史講義』まえがき

7月刊行のちくま学芸文庫『英米哲学史講義』(一ノ瀬正樹著)から、「まえがき」を公開します。

 本書は「功利主義」と「分析哲学」という二つの哲学・倫理学の潮流について、両潮流の源流に当たる「経験論哲学」に沿いながら論じ、なおかつ「計量化への志向性」という見地から功利主義と分析哲学が融合していく様子を追跡していくことを主題として、2010年に刊行した放送大学のテキストを、『英米哲学史講義』として新たに改訂増補した書物である。とりわけ、第12章「プラグマティズムから現代正義論へ」を、「英米哲学史講義」というコンセプトに合わせるべく、新たに書き下ろし、付け加えた。これで、完全とまではむろん言えないとしても、英米哲学史全体のおもな流れをおおよそ通覧した内容になっていると思う。

 さて、そもそも2008年に、放送大学の佐藤康邦教授(当時)から、「功利主義と分析哲学」という主題で科目を担当してもらえないか、という依頼を受けたときは、正直、大いにとまどった。二つの領域それぞれが広大な、しかもさしあたり独立したテーマで、その両方を一冊の書物の中で連係させながら論じることに、途方もない困難を瞬間的に感じたからである。非常に迷ったが、少し考えてみると、「経験論哲学」という共通の源泉を要として、しかも「程度」を許容するという意味での「計量化」をともに志向している(少なくともそういう側面がある)という点で、功利主義と分析哲学を一つの構想のもとに論じることは可能かもしれないと考え始め、お引き受けすることにした。

 その後、筑摩書房の増田健史氏から、「ちくま学芸文庫」として本書を再版したい、という有り難いお話をいただいた。その際、読者の接近しやすさという点に鑑みて、『英米哲学史講義』というタイトルのもと、コンセプトを一新したい、というご依頼を受けた。私にも異存はなかったが、その新コンセプトのもとで再版するには、どうしても「プラグマティズム」や「現代正義論」についての叙述の欠如が気にかかって仕方がない。ということで、急遽、新章を書き下ろすことにしたのである。

 もともとの構想は、最初の五つの章では「経験論哲学」について論じて、第6章から第14章まで功利主義と分析哲学のさまざまなトピックについて検討していく、というものであった。そして、最後に「ベイズ主義」についての章を配して、現代哲学の文脈に沿って、功利主義と分析哲学が融合した姿を論じるという構成になっていた。その途中の第12章において「プラグマティズム」と「現代正義論」を論じることになったわけだが、そのどちらのトピックも、経験論、功利主義、分析哲学と、陰に陽に関わっており、全体のカラーには変化はない。

 ところで、「功利主義」という言葉を聞いて、皆さんはどう感じるだろうか。これが倫理学あるいは道徳哲学の一つの立場であることを知っている人でも、あまりポジティブな印象を受けないかもしれない。その理由はおそらくはっきりしている。「功利」という日本語が、倫理や道徳にふさわしくないと感じられるからであろう。私たちにとって倫理や道徳というのは、道端で苦しそうにうずくまっている人がいたら手をさしのべてあげるというような、あるいは暴力など他人を害する行為を控えるといった、他人を思いやる態度のこととしてとらえられているように思われる。これに対して「功利」というのは、「功利的な人」という言い方が日本語では「打算的な人」という意味になることからして、どうしても自己の利益のことを意味する用語として理解され、したがって「功利主義」というのは、なんとなく、自己の利益を追求することをよしとする立場、というように考えられてしまっているふしがある。

 もちろん、これは単純な、そして不幸な誤解である。「功利主義」とは、本書第6章以降で詳しく論じるように、社会全体の「最大多数の最大幸福」を実現する行為をよしとする立場にほかならず、決して個人の利益追求をそのまま承認する立場ではない。ある特定の個人の利益追求が、社会全体の幸福を減少させるならば、それを禁ずるのが功利主義の立場であり、享楽的な態度が社会全体を害するとするならば、功利主義は断固としてそれを阻害する。それゆえ、今日「功利主義」は、日本語としての名前の印象のマイナス要因を回避するため、「公益主義」などと呼ばれることもある。私自身は、「最大多数の最大幸福」というスローガンに即して、「大福主義」という呼び名を本書では提唱している。なんとなくふくよかで、しあわせな感じが伴う呼び名で、功利主義が受けてきた誤解を解くのにもよいかと思った次第である。

 いずれにせよ、功利主義への誤解が生じるのは、多くの人が、倫理や道徳ということで、さきに挙げたような、人を助けるとか、人を害さないといった、道徳のルールあるいは原則を守ることを、あるいはそれを守ることのみを「道徳的によいこと」として思い描いてしまう、という点にあるように思われる。そんなことは当たり前ではないか、そうした道徳のとらえ方のどこが問題なのか、と思われるかもしれない。けれども、冷静に考えてみると、これは事実を偏ってとらえているし、場合によっては危険な態度にもつながりかねないのである。

 まず、私たちは事実として必ずしも「道徳の原則」を守ることだけをいつも正しいと考えて生活しているわけではない。ときと場合によっては、「噓も方便」といわれるごとく、人を苦しませないために噓をついてしまうこともあるし、外国との交渉などでは、道徳的に絶対にこちらが正しいと一面では思っていても、国益を考えて原理原則を少し曲げたほうがかえってよい、と判断することさえある。つまり、道徳の原則を守るよりも、苦しませないとか、国益にかなうとか、そうした考慮を優先している場合が事実として多々あるのである。そして、こうした私たちの態度をそのまま人間のありようとして認めて道徳哲学を展開しようとするのが「功利主義」なのである。

 つまり、「功利主義」は、国益とか、学生の利益とかを考慮しながら展開されている私たちの実際の社会生活の実態をまず認めて、そこから倫理学を構築しようとしているのだが、そこのところが日本ではうまく伝わっていないのである。しかるに、現実の政治、社会、経済の営みは、ほぼすべて「功利主義」的な考え方に実質上のっとっている。そうした実態に目をつぶって道徳哲学を論じるのはいささか偏っているといわざるをえないだろう。

 また、道徳のルールや原則を守ることのみをよしとする立場は、結局、道徳の原則を、個々の事情を考慮することなしに、一律にかつ厳格に適用し順守しようとすることになりがちであり、そうした立場は、特定の宗教などに関して生じるような、いわゆる「何々原理主義」と呼ばれる硬直した態度に結びつく危険があるという、この点も注意されてよい。もちろん、だからといって、道徳のルールや原則がないがしろにされてよい、ということには断じてならない。このあたりをどう考えるか、それがまさしく、本書が論じようとしている主題である。そして、現代の正義論は、こうした功利主義に対する検討から発生してきたのである。

 功利主義に対する単純な誤解と似たような事情が、アメリカの「プラグマティズム」にも当てはまる。「プラグマティズム」はかつて「実用主義」と訳されていた。「実用」を謳う哲学など、いったい誰が真剣に受けとめるだろうか。訳語は本当に大切である。訳語一つでイメージが固定され、バイアスがかかってしまう。私はかつて、ある先輩の方から、英語で哲学なんてできるのですか、と真顔で問われたことがある。まことに不幸な帰結である。虚心坦懐に向きあえば、功利主義もプラグマティズムも、きわめて深く練られた思想であることは直ちに理解されるだろう。まずは、英米哲学の中身に向きあってほしい。

 さて、他方で、「分析哲学」だが、これもある面で誤解されているふしがある。とくに、哲学に少し詳しい人に誤解されているように思われる。というのも、「分析哲学」というと、論理分析とか言語分析に終始した、伝統的な哲学の問題を意図的に軽視する、過激な議論を展開する英語圏の哲学の潮流のようにとらえられているように、ときに感じられるからである。

 しかし、こうした「分析哲学」に対する印象は、単にオールドファッションであるにすぎない。確かにこうした印象は、第8章で論じる「論理実証主義」に関しては一定程度当てはまるかもしれない。けれども、21世紀の今日、もはや事態は著しく変容を遂げている。論理実証主義が排除しようとした形而上学の問題が、分析哲学的な流れの中で堂々と盛んに論じられている。また、一部の論理実証主義の哲学者たちが無意味な命題に分類した倫理学についての主張も―しかも「何々すべき」という規範的な主張が―、まさしく功利主義との連関も含めて、現代の分析哲学の一大トピックとなっている。扱っている主題だけに関していうならば、現代の分析哲学は、ドイツ観念論の哲学と変わりない。存在論、認識論、倫理学、美学、宗教哲学、形而上学。まことに伝統的なのである。

 そういう意味で、実は、「分析哲学」という名称は21世紀の現在、あまり意義を持たない。つまり、「分析哲学」と称して、他の哲学の流れと対比させることにほとんど意義が見いだされないような状況になってきたということである。事実、第1章でも触れるが、現在では実は、「分析哲学」という名称は世界的にはそれほど多く用いられない。むしろ現状では、「認識論」、「形而上学」、「倫理学」、「論理学」、「科学哲学」といった、領域名を用いることのほうが圧倒的に多いのである。私自身、イギリスの哲学者たちと「分析哲学」という語を用いて会話をしていたとき、クワインの哲学のことですか、と問い返されたことがある。クワインは、第14章で論じるが、1950年代から70年代ぐらいまでに活躍した哲学者である。つまり、30年以上前の哲学を「分析哲学」という名で思い描いているわけである。これが現状である。しかし、そうはいっても、おもに英語圏で展開されている、経験科学や論理と結託した形で、できるだけ明晰な議論を心がける、といった大まかな特徴を持つ哲学の傾向として「分析哲学」という名称を用いることは、少なくとも間違ってはいないし、とくに日本では十分に通用している。私自身、本書では「分析哲学」という名称をそうした大まかな意味で用いている。

 本書を執筆するにあたって、多くの方々からの恩恵を受けた。まずは、放送大学の関係者の皆様に感謝申し上げたい。そしてなにより、本書『英米哲学史講義』を文庫化することを促していただいた、筑摩書房の増田健史氏に心よりお礼申し上げたい。増田氏の継続的な励ましこそが、本書完成の原動力であった。

 放送大学のテキストとして執筆したときには、二匹の愛犬への感謝を記した。いまはもう彼らはいない。寂しいが、自分に与えられた環境と時間のなかで励むしかない。妻と娘、そして愛猫に感謝しつつ、本書を世に送りたい。

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