私は戦後の日本美術史をめぐる著作のなかで、辻惟雄『奇想の系譜』(美術出版社、1970年、ちくま学芸文庫、2004年)と北澤憲昭『眼の神殿』(美術出版社、1989年)の二書は、歴史に残る二大著作だと思っている。前者は半世紀にわたってまったく色あせることなく読みつがれ、後者も30年間、近現代日本の「美術」「美術史」「美術史学」の基本設計図を示した名著として読み継がれている。辻先生は大学時代の私の恩師、北澤さんは同書以後研究を共にしてきた畏友中の畏友で、この二人と出会えたことは、私の研究人生で最大の幸運と幸福だった。もう一人恩人をあげるなら、私たち二人の各著書をサントリー学芸賞に選出してくれた高階秀爾先生だろう。批判も強かった制度論がこれで認知された感があったし、辻・高階両先生には研究者のあるべき姿を教えられたように思う。
本書が世に出た1989年は、年初の昭和天皇崩御、ヒリヒリするような自粛ムードの中での平成改元に始まり、11月にはベルリンの壁崩壊と、歴史的大事件が相次いだ。日本はまだバブル経済のさなかだったが、これから日本と世界はどうなるのか、人々の期待と不安が未来に向かう中で、9月に刊行された現代美術評論の北澤さんによる本書が、逆に過去の近代へと遡る内容だったことは意外だった。1980年代に盛んに議論されたのは、「現代美術が迷路に入って出口が見えない」ことだったが、彼はそれを来し方を検証することで、近現代の美術の構造じたいを明らかにしたのだった。
当時、現代美術はまだ私の視野に入っておらず、日本画を中心とする近代美術を研究していただけだったが、それでも本書の衝撃は大きく、読後三日間は頭が真白になって何も考えられなかった。従来の作品作家論の美術史でも美術評論でもない、見たことのない歴史風景がそこに描き出されていたからである。とくに私にとっては日本画関係者だったフェノロサや天心が、美術教育、美術館、博物館、博覧会、文化財保護、美術史学など、近代日本の「美術」制度そのものの設計者として描かれていたことで、この「美術の制度化」という理論が私にとって避けて通れないものになることが直感された。とくに本書に出会うまでに、日本画・洋画の旧派がなぜ共に忘れられたのか、日本・西洋での日本美術(史)イメージがなぜこれほど大きく違うのかといった、構造レベルの問題に突き当たっていた私にとって、本書の理論が少なくとも日本の国内状況の解明に確実につながることが予想された。正確に言えば北澤さんの関心は「近代」と「現代」に、私は「日本」と「西洋」の関係論に軸足があったし、本来の専門も美術評論に美術史と違っていた。しかし「美術」を共通項に、以後の私は北澤さんからじつに多くを学びながら活動を共にすることになった。刊行から30年が経った現時点だから見える本書の意義を、私なりに述べてみたいと思う。
北澤さん自身、この本が美術評論か美術史かと問われたことを書いている。私の本も美術史ではないと言われたが、おそらく北澤さんの評は美術評論側から、私の場合は美術史側から発せられた評だった。当時から制度論自体は、ポストモダニズムやニュー・アート・ヒストリーの文脈に位置づけられたが(私はより国民国家論に)、しかし方法論が先にあったわけではない。北澤さんはその起点を、アヴァンギャルディズムに共感を持っていた彼が、1970年代の現代美術で絵画や彫刻の〝復権〟が唱えられた時、「美術」が無条件に前提とされたことへの疑問にあったとする。同時に、美術館建設ブームの到来が、美術界での官僚支配体制の強化を感じさせたことがあったという。辻先生の『奇想の系譜』が『美術手帖』に連載された当初、「奇想の系譜――江戸のアヴァンギャルド」というタイトルだったことも、同じ時代の空気を感じさせる。
北澤さんが美術評論を始めたばかりの時期に抱いたこの動機が、本書として刊行された
のが1989年、彼が三八歳の時だったことになる。この時、現代美術は迷路の中、しかし一方の美術館は、バブル最盛期で建設ブームの頂点、美術市場は沸騰し、現代美術の回顧展が美術館で開催され始めていた。アヴァンギャルドさえ美術館にとり込まれ始めた時に本書が出たことは、ドンピシャのタイミングだったのかもしれない。本書の衝撃は、美術の現場(制作・批評)にとどまらず、以後、美術館・博物館、美術史研究、美術市場、美術ジャーナリズム、文化財保護へと、野火のように広がっていった。美術の制度論が1990年代以降を代表する新動向となっていったことは、周知の通りである。
以後の北澤さんの活躍は華々しかった。特徴的だったのは、1980年代までの議論が「現代美術とは何か」を中心としたのに対して、ここでは「美術とは何か」と並んで、「日本画とは何か」「工芸とは何か」といった、まさにポストモダン的なテーマが議論されたこと。また数多くの研究会やシンポジウムを企画する際、北澤さんが作家、批評家、美術史家の混成メンバーとすることが多かったことである。現在と歴史を相互反照させようとしたからだろう。そして声がかかった人々の多くがそれを快諾したのには、彼の実力と同時に律義さや誠実さへの信頼とカリスマ性があった。北澤さんの言論の切れ味からすれば、批判や異論を論破するのはたやすかったはずだが、ディベートに馴れた余裕もあったのか、研究会やシンポジウムで議論をリードするのがじつに上手かった。何十回の研究会を経て、28人の編著者で刊行にこぎつけた、制度研究の集大成ともいうべき大書『美術の日本近現代史 ―― 制度 言説 造型』(東京美術、2014年)も、彼なしではとても完成できなかった。
本書が出た2年後、日本ではバブル経済の崩壊、世界ではソ連崩壊と、戦後体制の終焉が決定的となった。本書がまさに時代の境目に出たことが浮き彫りとなったが、その後の展開も含めていまふり返ると、美術の諸制度の中で、制作・表現領域での転換が、美術館や博物館など機構組織の転換より少し早かった様子が窺われる。迷路にあったはずの現代美術は、1990年代以降、脱ホワイトキューブ、アートプロジェクト、コンピューターによるメディアアートなど、脱構築、ポスト現代美術ともいうべき「現代アート」に向かっていった。いま、美大の学生で「美術家」「芸術家」と自称する人はほぼなく、「アート」「アーティスト」になってすでに久しい。一方、国立の美術館・博物館の独立行政法人化は2004年、国立大学の法人化は2006年。東京藝大で1990年代以降の「アート」に対応した新学科がつくられていくのも、2000年頃以降である。しかも「芸術」大学の「美術」学部で、「アート」をつくるいびつな形になっており、表現に比べ、機構組織の制度改革はいかにも腰が重い。しかもこうした制度改革のそもそもの目的自体、実際には政府の〝財政〟改革にあり、バブル崩壊(1991年)後の長い不況が直接の原因だった。
バブル経済さなかの1989年に本書が出たとき、現代美術の閉塞を説く声はあっても、まだ美術館・博物館、大学、美術史、美術市場、美術ジャーナリズムの終焉を説く声はなく、世は浮かれていた。一足早く現代美術に表われた「美術」の〝制度疲労〟が、本書を生む一方で、本書はバブル崩壊後にやってくる機構組織の〝制度疲労〟を予言した、「予言書」になったのだった。これは、北澤さんが「美術」の起源を近代まで遡ったからであり、これによって美術団体も現代美術も、美術館や美術市場などの異業種も、すべて「美術」の異株同根の存在であり、それらの総体が「美術」の社会的生態系であることが明らかにされたのだった。美術史の中でもすでに細分化、専門化が進んだ状況から出発した私自身、近現代を通貫し、自分たちの職場環境までが研究対象となる理論の出現など、予想もしていなかった。
以後、私の場合は、「美術」や「日本画」「工芸」とは何か論ももちろんそうだが、とくに美術行政や美術史学史にかなりの比重をさいてきた。それが、日本・西洋間での日本美術(史)イメージのギャップの解明に、もっとも有効と考えたからである(前者はモノの生産と移動、後者は言説からのアプローチとして)。また自分が現在時点から歴史を見ている以上、その立ち位置の確認は近代から現代、そして現在へと通して見る必要があった。私が現代美術の批評を行なうことはなかったが、現代・現在の史的地平には常に関心があり、その点北澤さんのヴィジョンは、常に指標として頭のなかにあった気がする。文化財研究所から制作現場の東京藝術大学に職場が変わったことも大きかった。タイプもメディアも発想も異なる、しかし〝現在〟の多くの作家・アーティストたちとの交流や、とくに実技系博士論文に関わることから学んだことは多かった。制度の中での前述の表現領域と機構組織の関係は、十二分に体験、体感した気がする。
制度論的な美術史研究は、いま韓国、台湾、中国など東アジアでも行なわれ始めている。「美術」や、「西洋画」「国画」という絵画の二部体制など、かなりのものがじつは近代日本から東アジア各国に伝わったものだったことが明らかになりつつある。そこでの「美術」は、西洋画と同様、日本経由で伝わった西洋の制度といえるが、近代東アジアの枠組で考える時にはやや慎重を要する。たとえば西洋画は、日本では西洋化や近代化の象徴だが、東アジアでは支配性(グローバリズムあるいは日本による)のニュアンスを伴ったりする。「美術」は西洋画や日本画のような地域名称を背負っていないため、今そうした問題に抵触しているわけではない。むしろ2010年代に入って国際シンポジウムなどでは、近代東アジア絵画を論じる重心が中国美術に移行しつつある中で、逆に日本での「美術」「美術史」「美術史学」をめぐる議論が、制作・研究両面で圧倒的に西洋との関係に偏重してきた様子が浮き彫りになりつつある。国画のシンポジウムであれば、中国ではほぼ南宗画(の水墨画)になるが、日本での南宗画は日本画のあくまで一部であるため、断りを入れてからでないと単純に表現の比較や影響論はできない。
この2010年代の動向と、日本での近現代美術研究がじつはかみ合っておらず、かつて私が感じた日本・西洋間のイメージギャップ(日本美術史、近代日本美術史の両方)が、いま中国あるいは東アジアとの間に生じつつある。単純に言えば、それに対応しうるこの分野の研究者がきわめて少ない。北澤さんの学生時代の専攻は、たしか中国文学だったと思うが、中国・日本・西洋をバランスよく知る(しかし実際にはほとんどいない)知識人として、北澤さんにここでもう一回ご登場願えないかと思うのは酷だろうか。彼がこの三者の間にどのような歴史風景を描き出すのか、とても見てみたい気がする。