ちくま文庫

有名人の怒りかたを採点してみよう

7月刊のちくま文庫、パオロ・マッツァリーノさんの『日本人のための怒りかた講座』から文庫版まえがき「有名人の怒りかたを採点してみよう」を公開します。「怒る」ことは「交渉する」こと。怒りをためこまず、不愉快なことを相手にやめてもらうためのテクニックを具体的に伝授します。

 怒りたいのに怒れない。注意したいけど、やりかたに自信がない。怒れないから余計イライラして、怒りが自分のなかに際限なく積み上がっていく。しまいには怒りたい相手だけでなく、怒れない自分までも嫌いになっていく……。
 そんな葛藤に悩んでいるみなさん、本書を手にとってくださったのもなにかのご縁、しばらくのあいだ私の話におつきあいください。
 申し遅れました、私、怒りマイスターのパオロ・マッツァリーノです。お米マイスターみたいな肩書きですが、そんな資格は実際にはありません。いま思いつきました。イタリア風に怒りマエストロにしたほうがいいかな、なんてのはどうでもいいですか。
 私はこれまでマナー違反をしている日本人に、何十回となく注意してきました。もちろん相手はまったく知らない他人です。年寄りに対してもこどもに対しても、公共の場で、私ひとりでやってきました。ですからマイスターとまではいかなくても、みなさんにコツをアドバイスできるくらいにはなれたかと。
 日本人の気質や日本文化を長年研究してきた私が、身を持って実践した上で体得した、日本人にとってベストと考えられる怒りかた、注意のしかたを、本書では具体的に伝授いたします。
 そこで手始めに、芸能人や有名人が他人を注意した様子を私が採点してみたいと思います。
 いまや芸能人や文化人も、あたりまえのようにブログやツイッターを使い、日々の身辺雑記を発信しています。
 有名人は人気商売ゆえに、他人とのもめごとをできるだけ避けているはずですが、彼らだって感情がある人間です。ときには他人の言動にイラッとして、怒ったり注意したりしてしまうこともあるでしょう。そんな様子をブログやツイッターにつづっている例がいくつかみつかりましたので、三例を評価してみます。
 まずはお笑い芸人の松本人志さん。二〇一六年二月二〇日のツイッターで、ラーメン屋で居合わせた迷惑な客に注意した様子を書いてます。短いので全文を引用します。

さほど広くもないラーメン屋で大きな声で携帯で話す客に注意。ほんとは君の仕事だよと店員に注意。一部始終をただただ黙って見てた後輩に注意。。。オレいつ
かしばかれんのかな?負けへんぞ!

 すばらしい。文句なしのA判定です。本書で私はしつこく繰り返しますが、他人に怒ったり注意したりする行為は、コミュニケーションなのです。コミュニケーションとは自分の気持ちを相手に伝えること。相手の行為に怒ったのにその怒りを伝えずガマンしてしまったら、コミュニケーションは成立しません。あなたの気持ちは永久に相手に伝わりません。
 このときの松本さんはデカい声で携帯で話していた相手にじかに注意して、自分の気持ちを伝えています。さらに評価が上がるのが、知らんぷりしてた店員にも注意しているところです。これは私も図書館で何度か同じことをやりました。図書館の職員にも、マナー違反者を見て見ぬフリする人がとても多いのです。相手だけでなく周囲も巻き込む注意はとても効果的です。
 文字制限があるツイッターでの発言なので詳細がわからないのですが、「ほんとは君の仕事だよ」という文章から判断するかぎりでは、松本さんは激昂せず、客にも店員にもていねいな言葉で注意したものと思われます。
 松本さんは注意したことで逆ギレした相手から暴力の報復をされる心配をなさってます。いまこの本をお手に取ったあなたもきっと、それを心配してますよね。
 私の経験上、ていねいな言葉と態度で注意した場合、相手から暴力を受ける確率は非常に低いです。相手が気分を害したとしても、たいていはシカトされるだけで終わります。
シカトされたことにムカついて、てめえ、このやろ、バカヤローといった挑発的な言葉で深追いするのは相手の暴力衝動を刺激することになるので、絶対にやめてください。
 続いては歌舞伎界から市川海老蔵さん。二〇一六年三月七日のブログ記事を抜粋します。

 新幹線に乗った海老蔵さん、後ろの席の五、六〇代男性がずっと音を立ててゲームをしていることに腹を立てます。無言で相手の顔を見て不快感を伝えようとするも、音を少し小さくしただけで消してくれません。耐えかねた海老蔵さんは車掌を呼んで注意してもらったところ、そのあと男性からずっとニラまれました。

 これは結果的には目的を果たせましたけど、注意のしかたとしてはB~C判定ですね。
マナー違反者に対してアイコンタクトや表情で怒りを伝えようと試みる人が少なくないのですが、あなたがエスパーでないかぎり、それは往々にしてこちらの意図を誤解されるだけで終わります。かえってこじれることも珍しくありません。
 しぐさや表情で自分の意図が五五パーセント相手に伝わるとするメラビアンの法則なるものが広まってますけど、あれは論文を誤読した人が広めたデタラメ理論です。メラビアン博士本人が、その解釈はまちがいだと苦言を呈してます。言葉でなければ意図は正しく伝わりません。
 このケースだと、海老蔵さんは音を消してほしくて相手をニラんだのに、相手は音を小さくしてほしいのだと解釈しました。ここで生じたミスコミュニケーションが、さらなる誤解を招きます。相手としては海老蔵さんの要求に応じたつもりになってたんです。自分は相手の要求を飲んで折れた。なのに再度車掌を通じて注意された。なんで二度も注意されなきゃならねえんだよ! と相手は腹を立て、海老蔵さんをニラみつけたのです。
 ですからこの場合は最初から、直接言葉で「音を消して遊んでいただけますか」と具体的に要求を伝えるか、もしくは車掌を通じてそれを頼むかするべきでした。
 最後は青山繁晴さん。シンクタンクの社長さんだそうです。二〇一六年二月二一日のブログより。

 青山さんが同行者と新幹線に乗ると、通路を挟んだ席の男女四人が、周囲がびっくりするくらいの大声で宴会ゲームみたいなことに興じていました。青山さんはこのとき不快に思いながらもガマンしてなにもいいませんでした。
 翌日そのときの同行者に、昨日の連中はうるさかったね、と話を振ると、同行者は同意して、あれは『笑点』に出てる落語家ですよと教えます。
 それを知った青山さんは急に怒りはじめます。多くの視聴者に支えられている人気番組の出演者たる有名落語家があんな振る舞いをしてはいけない。もしあのとき有名な落語家だと気づいていたら、自分の名を名乗った上で彼らに注意していただろう、とブログに怒りをつづるのです。

 残念ながらこのケースはF判定。つまり落第です。評価できるところはひとつもありません。
 なによりダメなのは、その場でなにも行動を起こさなかったこと。松本さんのように相手に直接注意するか、もしくは海老蔵さんのように車掌に頼んで注意してもらう選択もあったはず。なのに青山さんはガマンすることを選びました。
 ガマンすることがいけないとはいってません。相手がヤクザみたいな場合など危険を感じたなら、注意せずにガマンするのが正しい選択です。
 ただし、注意せずにガマンするのはすなわち、相手のマナー違反行為を黙認したことになります。黙認するということは、相手を批判する権利を放棄したということです。
 青山さんがよくないのは、ご自分の責任と判断で黙認したにもかかわらず、あとで相手が有名人だとわかった途端に、ブログで攻撃しているところ。
 しかもご自分がその場で注意する勇気がなかった事実は棚に上げ、相手だけを一方的に責めてます。自分が黙認したことに関しては、あとづけでなんやかやと理屈をこねて正当化してるんです。
 青山さんがマナー違反を注意するかどうかの判断基準もよくわからない。「あくまで公共という視点から、注意せざるを得ないときに限って注意します」とのことですが、新幹線での落語家の騒ぎは、ブログを読むかぎりではだれが見ても完全に公共マナーに反するレベルです。これがセーフなら、いったいなにがアウトなのですか?
 有名人だからいけないという論理もいただけません。マナー違反行為に迷惑してる被害者にとっては、加害者が無名人か有名人かは関係ありません。テレビに出てる有名落語家ならダメだけど、無名の前座なら許されるのですか?
 さらに、もし相手が有名人だとわかっていたら、自分の名を名乗った上で注意していただろうというくだりも意味不明。なぜ他人のマナー違反を注意するのに自分の名前や肩書きを教える必要があるのでしょう。マナー違反に注意する権利は、幼稚園児から老人まで、すべての人が持っています。たとえマナー違反者が総理大臣であったとしても、無名人が名を告げず注意してよいのです。もちろん逆に、総理が身分を明かさず、無名人のマナー違反者を注意する権利もあることは、いうまでもありません。
 他人に怒る、他人に注意するという行為はあくまで、相手の行為そのものに対してなされなければなりません。てめえ、バカヤローなんて言葉を決して使うなと釘を刺すのは、それが相手の行為でなく人格を攻撃することになるからです。
 行為のみが重要だからこそ、注意する側もされる側も何者であるかを問題にしてはならないのです。
 さてと、しょっぱなからずいぶんキツいダメ出しみたいになってしまいましたけど、たまたま青山さんの行動といいわけが、他人に注意できない人たちの典型的なパターンにピタリと該当したので、失敗例として取りあげさせてもらいました。
「公共のため」や「正義のため」という概念を重視する人。じつはこれこそがまさに、他人に注意できない人に共通する特徴なんです。意外でしたか? なぜそうなってしまうのかについては、本文中で詳しく考察しています。
 本書は、むずかしい理屈を説く思想書の類ではありません。私の実体験と調査研究
をもとに、わかりやすく説明していますので気軽にお読みください。
 私だって若いころは他人に注意なんてできず、悶々と怒りを抱えてました。おっさ
んになって少しは肝が据わってきた(ずうずうしくなった?)ので、試行錯誤してみ
る気になったんです。そうして、じょじょに効果的と思えるやりかたを学んでいきま
した。
 私のマネをしろなどと強制する気はありません。これなら自分にもできそうだと思
った部分だけ、ほんの少し実践していただくだけでも、溜め込んだ怒りを小さくでき
るはずです。くれぐれも、ムリはなさらぬよう、お願いします。

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