筑摩選書

人間への絶望と信頼
阿満利麿著『『往生要集』入門――人間の悲惨と絶望を超える道』書評

筑摩選書『『往生要集』入門――人間の悲惨と絶望を超える道』(阿満利麿著)の読みどころを、中世日本絵画史が専門の山本聡美さんが案内します。『往生要集』の著者源信が「愚かな存在」として生きる人間に見出した、一縷の望みとは(PR誌「ちくま」2021年2月号より転載)。

 天台僧源信によって、浄土往生の手引きとして『往生要集』が著されたのは、平安時代中期の寛和元年(九八五)、藤原道長や紫式部が生きていた時代のことである。以後、長きにわたって日本人の精神に深く影響を及ぼし読み継がれてきた同書を、日本精神史を探究してきた阿満利麿氏が、現代社会を生きる「私」にとっての問題として読みとく。諸経典を博捜した引用文の織物として編まれた『往生要集』に、近現代文学からの引用文を挿入して「織りなおす」ことで、千年前の書物を現代と接続する仕掛けが随所に施されている。

 著者は『往生要集』を「手ごわい古典」という。一見すると、「厭離穢土(おんりえど)」(欲望的世界である現世を厭い離れること)と「欣求浄土(ごんぐじょうど)」(阿弥陀仏の浄土を心の底から求めること)の対置を基盤とする『往生要集』の世界観は、現代人にさえ分かりやすい。しかしそれが表面的な理解でしかないことを、著者は、『往生要集』の一言一句に丁寧に向き合いながら解き明かし、真の理解、あるいは現代的な解釈へと読者を導いていく。

 例えば『往生要集』執筆の根本的動機ともいうべき、源信自身の自己認識「頑魯(がんろ)」について。これは同書序文に「多岐にわたる仏教の教えは、自分のような愚かな者(頑魯の者)にはとても実行できない」との内容が記されていることにかかわる。単純に読めば、稀代の学僧であった源信が謙遜の修辞を加えたものとも解釈できよう。しかし著者は、これを、仏教がいう無明(あらゆることがらを成立せしめている「因・縁・果」に対する無知)を脱しきれない状況に対する「求道者としての恥ずかしさ」に起因する自己認識であるとする。求道、すなわち真理を求めながら、学べば学ぶほど真理から遠いということだけが分かってくる、その苦しさ、辛さ、そして恥ずかしさから切実に選び取られた言葉が「頑魯」だと説明するのである。

 そのように説明されることではじめて、『往生要集』という書物の、ひいては源信という千年前に生きた僧侶の実在が、時空を超えて私たちの眼前に立ち上がってくる。『往生要集』とは、自力では到達し得ない真理との隔たりに絶望した求道者が、苦悩の中からつかみとった一縷の希望を示した書なのである。

 自己実現の追求を是とする現代人にとって、真の意味で自らを「愚か」と見なし、それを前提に思考することはほとんど不可能かもしれない。しかし、源信における苦しみをともなった恥の意識を理解し、共有しようとすることで、その先にある希望への道筋も見えてくる。この世の不条理を、自分が生きるたかだか百年に満たない時間の中だけで解決、納得しようとすることの難しさに現代社会は気づきつつあるが、私たちはそのことにまず絶望すべきなのかもしれない。

 では、源信が『往生要集』で示した希望とは何か。本書では「廻向(えこう)」という考え方に大きな関心を寄せている。強くこだわっていると言って良いかもしれない。廻向とは、自身の行った功徳を自他の悟りに振り向けることを言い、『往生要集』では大文第四「正修念仏」の第五「廻向門」に詳しく説かれている。阿満氏がこの部分を重視する理由は、『往生要集』に見られる廻向の思想が、浄土仏教成立の根幹にかかわるというだけではない。後に法然や親鸞の時代には廻向の主体が阿弥陀仏となり、すべての廻向のはたらきが阿弥陀仏の本願に委ねられるという他力往生の思想へと転じる以前の、日本における浄土信仰の古層がここに痕跡をとどめているからであろう。

『住生要集』では、過去・現在・未来という複雑な時空間において、人と人、人と仏との間で相互に廻向される功徳について説く。そしてそれを実践し得る主体としての人間への信頼と自負が、「頑魯」という絶望的な自己認識と表裏一体のものとして同書全体に通底しているのである。近代的自我と共に存在し、神仏への信頼を獲得しそこねて生きる私たちにとっては、源信が苦悩した頑魯の迷いこそ、新たに『往生要集』を読みなおそうとする時の心強い伴侶であることに気づかされる。