わずか数分、なんでもない出来事なのに、舫い船のように波間で揺れ続ける記憶がある。
その日、東京方面へ向かう中央線の赤い電車に乗っていた。正午すこし前。扉のすぐ脇に立って外の風景を眺めながら、四ツ谷駅を過ぎ、市ヶ谷、飯田橋。水道橋を抜けたころ、なにげなく車内のほうへ視線を移すと、立っている数人の乗客の肩越しによく知った顔が見えた。「あ」と思った瞬間、そのひとも気づいて「あ」と言い、笑みを浮かべながら扉のほうへ歩み寄ってきた。
「いやいや奇遇だねえ」
「ほんとに」
鬼海さんだった。茶色いウール地のハンチング帽、同色系のツイードのジャケット、シャツの首もとにスカーフを巻いたお洒落ないでたちに少しどきまぎする。
「こんにちは。おひさしぶりです。お変わりありませんか」
「まあ、なんていうの、良くも悪くもってところよ」
「鬼海さん、どこで降りるんですか」
「つぎのお茶の水」
「私もお茶の水です」
さっき水道橋を過ぎたから、二分とかからず御茶ノ水駅に着くだろう。ほどなく電車がホームに滑りこみ、開いた扉に向かいながら鬼海さんが言った。
「十二時ちょうどに改札の前で編集者と待ち合わせしてるのよ」
並んで階段を上がり、改札の外に出る。立ち話をしていると、すぐに鬼海さんの待ち合わせの相手が来た。
「平松さんはどっち行くの」
「神田須田町です。友人が東京に遊びに来たので、『まつや』でおそばを食べる約束をしたんです。ちょっと距離はありますけど、須田町に行くときはいつもお茶の水で降りて歩きます」
「あの界隈はほんとにいいよねえ。東京にわずかに遺っている昔ながらの風情でね」
「ええ」
コンマ一秒、カメラを肩に掛けて須田町界隈を歩く鬼海さんの姿が視界を横切り、そこへ「じゃあまた」と挨拶をかぶせて右と左に別れた。
ただそれだけのこと。もう四年経つのに、中央線の車内、吊り革、開く扉、御茶ノ水駅のホーム、階段、改札口……ハンチング帽の鬼海さんとの数分間の会話と映像の連なりは、まるで一枚のコンタクトシートを眺めるかのようだ。これまで鬼海さんとは、新宿のゴールデン街「ナベサン」や神楽坂「もー吉」などで何度も酒席をともにしたし、二〇一二年には、山形美術館で開催された写真展「PERSONA」に、鬼海さんをふくむ数人の友人たちといっしょに新幹線に乗って山形を訪れたこともあった。たしか十二月、ずいぶん雪が積もっていて、照り返しの強い純白の雪景色におたおたしながら「転ばないようにね」と声を掛け合い、美術館の入り口に向かった。その夜は山形市内の小さな居酒屋に集い、みんなでにぎやかに飲んだ。
なのに、記憶のなかの鬼海さんはいつも中央線の車内にいる。
鬼海さんの著書に『靴底の減りかた』(筑摩書房)がある。誠実と皮肉が入り混じる絶妙としかいいようのない題名を冠した一冊は、それこそ靴底を減らしながら写真家がほうぼうを歩き、視覚と言葉を連動させて文章を綴るエッセイ集だ。
ある日。総武線の亀戸駅で降りた鬼海さんは、しばらく徘徊したのち、南砂町の路地裏に入りこむと、白衣の看護婦三人が屈み込んで煙草をふかしている光景に出くわす。
「白衣の姿に促されて、浅草で二ヶ月ほど前にポートレイトを撮った女性を思い出した。その若い女は、境内を看護婦の格好で歩いていた。ナース帽にナース靴。目で追いかけていると娘にはどこか不思議な感じがあった。近づき、贋看護婦さんですかと話かけてみた。すると、美しい女性は屈託ない造花のような笑みを浮かべてコスプレですと答えた」
ある日。小岩駅方面に向かう途中、リボン付きのカチューシャをつけた老女と行き遇う。
「お洒落なおばあさんと別れ、何度か道を曲がると、ニッカボッカを穿いた初老の男が、道の真ん中で顎を天に向け、大きく開けた口に粉薬を入れていた。男は薬を口に含むと、手に持っていたペットボトルのトマトジュースをあおり流し混んだ。目が合うとニヤリと笑った」
瞼が開閉するシャッター音とともに映像が切り取られ、ぴしゃりと被写体深度の定められた文章から浮かび上がる若くて美しい贋看護婦、カチューシャをつけた老女、粉薬をトマトジュースであおる初老の男。それぞれ偶然、見知らぬ路上ですれ違っただけの男や女たちなのに、鬼海さんの言葉があてがわれると、王の肖像のひとりとしてPERSONAの仮面をつけ、言葉のレンズの向こう側からこちらを見つめ返してくる。
写真にしても、言葉にしても、鬼海さんによる表現には厖大な時間が流れている。モノクローム、銀塩プリントによる人物、建物、風景。あたかも無風状態のなかで静まり返っているふうだが、いったん近づいて踏み込むと、虚実のあわいに広がる底なし沼に引きずりこまれる。人物も建物も風景も、いつのまにか触媒となって意識下に働きかけ、得体の知れない作用をおよぼす。しかし、ここで忘れてはならないのは、この虚実皮膜をたっぷりと湛えた沼は、鬼海さん自身のリアルな身体運動や時間の堆積によるものだということだ。
家を出る。歩く。移動する。曲がる。躓く。昇る。降りる。折れる。引き返す。止まる。ふたたび歩き出す。立ち去る。いうまでもなく、こまごまとした身体運動すべてには濃密な目玉の動きがへばりついている。
惜しみなく費やされた鬼海さんの現世の時間が、PERSONAの視線の奥底には滔々と流れている。靴底を減らすことは、みずから生身を削ること。「写真も文章もそのようにして表すものだよ。そうじゃなきゃ真実には近づけない」と言う鬼海さんの声が聞こえてくるかのようだ。だから、黒いサングラスをかけて見得を切る十代の「銀ヤンマのような娘」(『PERSONA最終章 2005 ― 2018』)からも、私は、鬼海さんのなまなましい身体の存在を強烈に受け取る。いやむしろ、すべての肖像画の向こうに透けて見えるのは鬼海弘雄そのひとだ。
たぶん、と考えてみる。たぶん、記憶のなかの鬼海さんがいつも中央線の車内にいるのは、それがなんでもないただの移動の時間の途中だったからではないだろうか。鬼海さんの言葉を借りれば、「無聊まかせ」の身体運動。思いがけず電車のなかで行き遇い、鬼海さんの写真や文章の表現の源泉に触れた気がしたのだ。
御茶ノ水駅の改札口を出たところで、「じゃあまた」と半身を返しながら片手を挙げたハンチング帽の鬼海さんの姿は、ハッセルブラッドを携えて何十年も通いつづけた浅草やインドでの徘徊の時間にもたしかに繋がっていた。