鬼海弘雄

自分の歩幅で道を歩き続けること
鬼海弘雄インタビュー 2019年7月 聞き手:徐燕娜

2020年10月19日、写真家・鬼海弘雄がこの世を去った。無数のイメージが現れては消える現代社会にあって、地に足のついた確固たる写真表現を追求し続けた稀有な存在だった。本特集では、さまざまな角度から、鬼海弘雄の作品と人となりとをたどっていく。
2019年春、鬼海弘雄氏の『誰をも少し好きになる日』(文藝春秋刊、2015年)の中国語版が刊行された。編集を担当された上海浦睿文化の編集者・唐詩さんの仲介で、ファッションライターの徐燕娜さんからメールでインタビューを受けることとなった。記事はこちらで公開され、大きな反響があったという。元記事はエンナさんと鬼海氏の往復書簡としてまとめられているが、元の返信原稿はひとつひとつの質問に丁寧に答えるものであった。インタビュー形式に再構成してここに掲載する。
鬼海弘雄『誰をも少し好きになる日』中国語版『那些渐渐喜欢上人的日子』(撮影:唐詩)

──エンナと申します。中国のファッションライターで、ファッションとアートについての記事を中心に書いており、日々世界中のデザイナーやアーティストを取材、インタビューする仕事をしています。今回、先生の『誰をも少し好きになる日──眼めくり忘備録』を拝読して、ぜひお話をうかがいたいと思った次第です。インタビューを受けていただき本当にありがとうございます。

 こんにちは。エンナさん。
 お知り合いになれて、とても仕合わせです。よろしくお願いします。日本語で書いていただき恐縮です。ありがとう! 私たちには、昔から恩ある中国語なのに、私自身が少しも勉強していなく、申し訳ないと思っています。

 また、拙著を読んで頂きありがとうございます。海を隔てたお隣の人びとに、私の身辺雑記を読んでいただけることは、本当に嬉しいことです。

 質問に対して真摯にお答えするつもりですが、分りづらいことがありましたら、何度でも遠慮なくお訊きしていただければと思っています。ささやかで「当たり前」のことが、実は重要なことで、「真理」を共有することに寄与するかも知れないと思っています。そんな訳で、できることなら抽象論に逃げることなく、地面に足を着けたまま、それぞれの具体的体験を媒介して普遍への手探りができたらと思っています。病臥している身にはたっぷりと時間がありますので遠慮は必要ありません……。

──鬼海先生は昭和20年生まれ、私は昭和63年の生まれです。先生のほうが私よりもずっと多くの経験をし、時代によってもたらされた変化を感じてこられたことと思います。写真を撮るということも時代によって変化してきました。フィルムカメラからデジタルカメラ、私の世代ではもう多くの人々がスマートフォンで写真を撮るのが自然になっています。先生は、こうして撮影機器や方法が変わることは、写真にどんな影響を与えるとお考えでしょうか?

 わたしは1945年に小さな村の農家に生まれました。10歳を過ぎたころまで、朝は母親が薪でご飯を炊く甘酸っぱい煙りの匂いに、鼻腔をくすぐられて起きていました。わたしが育った1960年代の日本の就労人口の70パーセントほどが、農業、林業、漁業の第一次産業の従事者だったはずです。多くの人の暮らしは、実に質素でした。また、当時の多くの人にとって、働くことは身体を酷使する労働でした。ところが技術革新とやらで、大量生産、大量消費がたちまち世界中に波及して、想像を超えた速さで人びとの暮らしを豊かにしてくれました。

 1945年生まれのわたしは、そんな大衆文化がもたらしてくれた利便さを享受した歴史的「世代」なのかもしれない。しかしながら、今でもわたしの自然観や人生観の基層には、村で育った「不便」で質素なプリミティブな体験が記憶を形作っていると思っています。その肉体的、精神的体験なしでは、わたしが写真を撮ったり、文章を書いたりすることは絶対にあり得ないと思っています。人間にとって貧しさとかマイナスと思われている意味を、人間はもう一度考える必要がありそうな気がしています。老いたせいでしょうか……?

 わたしは46年間、モノクロフイルムだけで撮り、暗室でプリントをしてきました。もし、わたしが写真を始めた時にすでに簡便なデジタル写真が隆盛期であったなら、きっと写真の道に進むことはなかったと確信しています。農家生まれのわたしには、手間暇のかかる手作業なしに自分の仕事を見つめ直す手だてがないような気がしています。生まれ育った時代でもあるでしょう。無精者なのに、面倒なプロセスを抜きにしては、きっと自分の撮りたいものを探すことさえ、真剣に取り掛かることがなかったと思います。考えてみれば「好きなこと」に出会えるのも、不思議な過程なのかもしれません……。

 人類の何十万年かの歴史のなかで、近代的利便さでもって、今世紀のように急激に生きかたを変えた時代は、古今東西なかったはずです。たとえば、エンナさんとは43歳の年齢のひらきがあるわけですが、それさえ現代にあっては、ささやかな違いだと思います。生まれた国にしてもしかりです。今や全世界の人間にとって、消費文化という巨大な「津波」が、それぞれ長い時代をかけて育てられ培われた固有の文化を洗い流しています。その動きは、人の暮らしに抵抗しがたい利便と安楽を運んでくるから、本当に厄介な課題です。そして人びとの心に虚無を育てる短所をも……。

 今や人間は、世界共通の「夢」を創成すべき時がきているのかもしれません。写真に限らず表現の基本的な目的は、あらゆる人を少しだけ自由に開放するためのささやかな方法だと信じています。共有する夢の見果てぬ夢の創成への歩みの試み。世界と人間をそれぞれの人が他人と自分を好きになるために……。

撮影:唐詩

──人々のコミュニケーションのあり方も大きく変わりました。かつては手紙と電話で、現在はメールとSNSに変わり、ますます便利になりましたが、私にはちょっと「人間性」が少なくなっているように思えます。先生はそう思われませんか?
 私はたぶん、ソーシャルメディア上の自分と本当の自分が乖離してしまい、ソーシャルメディアが発達すればするほど、本当の自分と切り離されてしまうのだと思います。たとえば自分の撮った写真を加工修正してSNSに載せて、それが他人から賞賛されることがあります。こうしたSNSでもてはやされる「美しさ」は本物の「美」ではなく、他人に見せるためにわざと作り出した「美」です。これは時代の変化のせいでしょうか? それとも私たちの考え方のせいでしょうか? 先生はどうお考えですか?

 いつの時代でも群れに流されず、自分が自分であることを確かめることは至難なことだと思います。そのために哲学や美が絶対的基準として継承され続けてきたのかもしれません。その孤高な試みは、どこかで祈りと重なるところがあるのかも知れません。単なる利潤の追求という単一無二な欲望体系は、人間や世界を不自由にするキケンがあるかも知れません……。カメラと云う近代的装置を使う「無神論」の写真家のつぶやきの独り言です。スマホ写真で自分の生きかたを変える人は、きっといないでしょう。決断のないところには、表現は生まれることはないかもしれません。

──先生は、1973年から45年間、浅草で無名の人々の肖像を撮り続けていらっしゃるとのこと。この長い間に、先生に迷いはありましたか? たとえば「今日は調子が良くないからやめよう」とあきらめたり、「こんなことに意味があるのか」と煩悶したり、そういうことはなかったのでしょうか?

 人間ですから、いつもそんな弱言や戯言を言っています。ただ、その一方で自分でも同じことを続けているのが不思議な気がすると同時に、当然なことを続けているという気持ちもしています。「自分の歩幅で道を歩きつづけること」は先達の芸術家たちに教えてもらいました。

 わたしの写真は、残念ながら観る人たちに何ら有益な情報を提供するような表現ではありません。ただただ、観ていただく人の体温のある想像力だけが、わたしの表現世界を支えてくれると考えています。シャッターを押せば誰にでも写すことができる写真ですが、それを仕事として選んだ者の「夢」を語れば、撮った「作品」が、あらゆる地域の人びとに、しかも、生きている今の時代を超えて、違った時代の人びと響きあえれば、と願って撮っています。

 そんな考えが生まれたのは、撮りはじめてしばらく経ってから、作品となるような写真は実に写らないものだと気づかされたときからです。それを契機に、わたしは写真家になったと思っています。

 写真はわたしなりの、人類へ向けたささやかな宛名のないラブレターだと思って続けています。地味な営為の繰り返しですが、飽きることがないのは不思議なことだと思っています。たぶんいい写真を撮りたいという、片思い恋だからでしょう。

『PERSONA最終章』より ©鬼海弘雄

──私のファッションライターという仕事は、周囲から「オシャレ」「うらやましい」と思われているようです。一般の方からそう言われることもあります。けれど実は、この仕事には結構忍耐力が必要で、勉強に時間もかかります。特に文章を書くのは、出産のような苦しみがあります。けれどそこには、生まれてくるものへの期待も入り交じっています。先生は撮ることはつらくありませんか、先生にとって写真はどんな存在ですか?

 なんであっても、ものを真に創ることは容易なことではなく、もし安易に達成できてしまうものなら、きっと真の面白さは理解できないでしょう。これが真実なのかもしれません。しかしその一方で、寛容さがあることも事実です。きちんと自分の仕事を懸命に続けていると、仕事自体が進むべき方向を啓示してくれることがあるような気がします。それが継続することの意味だと思っています。ただし性急に、世間的に評価されるとか金銭的に報いられることを目標にすると、探求の歩みが乱れるかもしれません……。

 幸いにもわたしの場合は、大学生の時から36年間教えていただいた恩師で哲学者の福田定良先生がいつも指標になってきました。すでに亡くなられて18年経っていますが、今でもその教えはわたしの頭に生きていて、進むべき方向を示してくれています。真に尊敬できる先哲を持つことは真理や美を探す人にとってはとても大事なことだと思っています。それは古典の著者でも、身近に接することができる敬愛できる先達でも友人でもいいわけです。自分を見つめ返す「鏡」として必須なことだと思います。ある程度の読書の習慣も必要かもしれません。

──先生の『誰をも少し好きになる日』がとても好きです、先生の文章からは日常生活の「温度」と「優しさ」を感じます。先生はどのようにして文章を書く習慣を身に付けましたか? そして書いているあいだ、どんな気分を抱いていますか?

 わたしは残念ながら、撮影の仕事を頼まれることがほとんどなくて、いつも「暇」を持て余しています。そんな無聊の慰めに、中年になってからよしなし事を書きはじめました(ちなみに恩師福田先生は三十二冊の著作を残されました)。編集者の友人から叱咤激励された幸運も重なりました。写真を撮ることも文章を綴ることも、自分なりに考えることにとって大切なことだと思うようになってきました。そのことがわかっていても、今でも文章を書き始めることは面倒で難儀です。つい、書くことから逃げたくなります。情けない。