1989年、高校3年生だったぼくは、あるきっかけで写真作家という訳のわからない生き方をする人たちのことを知りました。折しも写真術誕生150年の節目であり、世界中のあらゆる名作を見ることができた良い時代でした。できれば自分も写真を使って自分の性にあったやり方というものを探してみたいと思っていました。
ある時書店に並べられた雑誌の中に10人くらいの日本の写真家の自画像の特集が組まれていたのに目が留まりました。誰が出ていたのかほとんど忘れてしまいましたが、顔中真っ黒のドウランを塗ったのとか、派手なセットを組んだのとか、ありとあらゆる虚構の世界を演じているものがほとんどだった印象があります。
その中にひとつだけ、自宅のアパートの6畳ほどの部屋の中で家族と一緒にポーズを取っている自画像がありました。背景には写真家の仕事道具などではなく、食器とか本とか洗濯物とか、きらびやかに着飾った世界が身ぐるみ剥がされ、ありのままの生活のディテールが昼白蛍光灯の均質な光の下で写っていました。
誰もが憧れていたかもしれないカタカナ商売の雰囲気を読者に提供するようなイメージがふんだんに盛られている紙面の中で、その見開きのページだけ際立って異質でした。面白いともすごいとも思えず、体の中に妙な違和感が残りました。
ぼくは作品を扱うことを仕事にしていますが、これまで数多くの写真作品を見るなかで、展覧会に足を運んだ翌日には忘れてしまう表現も数多くある一方で、翌週も次の年も10年先も、自分の心のどこかに残り続ける表現が時々あるのだということを経験しました。この自画像を撮影した「鬼海弘雄」というクレジットと合わせて、ぼくにとって初めての本物の表現との出会いだったのです。世の中が浮かれまくっている時代、無自覚に流れに身をまかせる人々を少し離れた松の木に乗っかり、鼻で笑いながらそれを眺めるような写真家の態度に強く心を揺さぶられたものでした。
『王たちの肖像』が大学の資料室にありました。饒舌に語りかけてくるような写真ではなく、見る者を試しているような肖像が並んでいました。だから、見た瞬間に感動するような安っぽいリアクションなどできるわけもなく、見た印象を言葉にすることもできませんでした。
表現に触れる醍醐味とは「これは一体何だ?」という疑問が頭を駆け巡ることです。鬼海さんの仕事は、ぼくには果てしなく遠いところに答えがありそうな、最高級の表現でした。だからそれから30年近くかけて、想像の翼を広げながら、より深く理解したいと願いながら作品と自分との意識の距離を詰めてくるような仕事の日々を送ってきました。
いまだにこのエピソードは本人にお伝えしたことがありませんが、全く異なる時代と場所に生きて、ほぼ交わることなどないだろうと思っていた人生の中で、ちょっとの間、濃密な交流を持てたことに感謝しかありません。