いまから25年前、一冊の写真集と出会った。鬼海弘雄『や・ちまた──王たちの回廊』(1996年)だ。ぼくは写真の作品集を手にすることは、これまであまりなかったように思うが、この写真集には、特別な印象を抱いた。浅草の浅草寺を通りかかった、ごく普通の人たちを、無地の背景で、撮影したものだ。いわゆるポートレイトである。
そこには、さまざまな人たちがいた。そもそも浅草は、庶民の街であるだけではなく、都内有数の観光地であり、またいっぽうで、東京に暮らす人の、なつかしくも旧い心の世界を濃厚に漂わせる。その多彩な賑わいのようすは、銀座、新宿など他の東京の街とは異なるものだ。濁っているようで、淀んでいるようで、でもときには、さっぱりとして、澄み切ったところもある。いろんなものが同時に見える街。それが浅草だ。
1973年から、撮り始めたということだ。誰も彼もを撮ったわけではない。ふさわしいと写真家が感じた人をさがし、一日に一人、二人程度の人に、カメラを向けた。時間をかけた、作業だった。それらの作品が『や・ちまた』に収められたのだ。その後も、浅草のポートレイトは『PERSONA最終章 2005 − 2018』までつづき、鬼海弘雄のライフワークとなった。
『PERSONA最終章 2005 − 2018』を開くと、「銀ヤンマのような娘」とキャプションのあるサングラスをかけた十代の女の子、「医学部志望予備校職員」の中年の男、「病気で、板前を辞めざるをえなかったという人」や、内装業者の男、スナックのママ、母と東京見物に来た沖縄の青年、浅草は50年ぶりの婦人、「道楽者」だという老人などが登場する。「小説家丹羽文雄全集を持つ男」もいる。それぞれに個性的で、目をみはるものがある。ほとんどの人が、正面を向くので、こちらに、その人の半生を語りかける空気がある。普通の人たちなのに、見つづけても、いっこうに飽きない。吸いこまれるような静けさもある。
まずは、彼らの顔である。顔の表情は、ひきしまった感じがある。年をとった人も、いろんな悩みを抱えているだろうに、堂々としている。「これが私です」という顔である。文章を書く人なら、ひとりひとりを描き分けたい誘惑にかられることだろう。単純な構図なのに、そこには滔々とした時の流れが現れる。彼らは、この日にために生きてきた。そう思わせる空気もある。
もう一つの要素は、服装である。家を出たときは、撮影されることなど考えていないので、いつもの装いで登場する。でもそこには、いくつかの特徴のようなものがあるように思う。
職業を匂わせる服装。それは人間の仕事というものをあらためて感じさせる。みんな、仕事をして生きているのだ、そしてそれにふさわしい服装をしているのだと。だが、仕事の服装ではなく普段着となると、少し話はむずかしくなる。その人は、かつて誰かに、あなたはこの色が似合うね、あるいは、この服を着るといいねと、いわれた。そうなると、その服装をつづけることになるのだ。というふうに、たとえば恋が成就すると、好きな人以外の人にアピールする必要がなくなるので、そこからだらりとした、かまわない服装になる。つまり、自分の好きな人ができると、その地点で、服装は止まるのだ。やつす必要がなくなるからだ。愛情というものを得ると、そのときをもって、華やかな服装は消えていく。だらりとしたかっこうをしているのは、その人のなかで、愛情が終わったしるしである。いっぽうで、愛情を手に入れた人でも、まだ夢をみている人もいる。そういう人は、それからも、服装でアピールしようとするので、工夫をこらす。そんなちがいがある。それだけではない事情もあるだろうから、一概にはいえないけれど、浅草の人たちもまた、そうしたみずからの愛情の歴史を、服装のなかに、しのばせているのだと思う。この視点からもう一度、写真集を見ていくと、世界はより深く感じとれるだろう。
さらに一つは、日々の仕事で、服装がどこか乱れた印象を与えるという点だ。
先日、Eテレを見ていたら、こころの時間というような番組に、児童文学の翻訳で知られる女性が出てきた。途中から聞いたので、あまりはっきりおぼえてはいないが、印象的な話をした。
彼女が、まだ若いとき、都内の短大で教えたときだから、1970年代のことだと思う。短大の女学生がいうには、学校へ来るときに乗る都電に、大きな荷物をかついだ高齢の女性がいて、いやだなと思う、と。何か、ちがった人がいると思う、と。都会育ちの若い女性にとって、その感想は自然なものかもしれない。そのとき、先生である女性は、学生に、こんなことを述べたという。「たしかに、生活の匂いがして、好もしくない感じになるかもしれない。でもね、児童文学を勉強することは、単に文学作品を鑑賞することではないのよ。その行商のおばあさんをしっかり観察してみて。そのおばあさんの暮らしや、それまでの人生を想像してみたら、どうかな。その想像から、いろんなことがわかる。それがとても大切なことなの」と。こういう見方を知ると、ほっとする。そうだ、とぼくも心のなかで思う。
鬼海弘雄は、エッセイ集『靴底の減りかた』(2016年)の「湿布薬と大衆演劇」のなかで書く。
「浅草寺の境内に佇んで往来する人を眺めていると、ふと、あの自転車で畑に出かける老人の面影が、また、あるオバさんを思い出させた。その人とは、境内をよぎるのをよく目にしていた野菜行商のオバさんだ」。「背を屈めて大きな竹籠を背負い、住宅街に行くのを目にしていた」。「昭和五十年頃まで東京近郊の電車には、オバさんのような近郷の農村から行商にやって来る婦人をまだ見かけていた」。
行商の婦人の姿を、鬼海さんが見た時期と、短大生が見かけた時期は、1970年代の前半ということで、一致するように思う。行商の婦人は一つの例にすぎない。その頃まで、浅草には、多様な人たちがいた。その人たちは、いまも見かけることがあるとはいえ、当時より数は少なくなった。ポートレイトは、そういう時の流れもどこかで映し出すことになる。
鬼海さんに写された人たちは、たとえその人がどんなに閉鎖的なところにいようと、どんな平板な暮らしをしていようと、美しいのだ。汚れているはずの服も、そのまま、こまかいところまで見えるように写される。すると、不思議なことに、汚れも、ほころびも、ことごとく消え、そこには、その人の人生のもつ、とてもきれいなものが見えてくる。それは美しいとしかいいようのないほど張りのあるものだ。よれよれの服も輝き、見る人に迫る。そのことにぼくは見とれてしまう。それが鬼海さんのポートレイトの感動である。人を見ることは、本来、こうしたものを見ることなのだと思う。
もう一方のライフワークとなったインドの写真は、『SHANTI ── persona in india』(2019年)がそうであるように、個々のポートレイトではなく、より広い背景のなかで、子どもたちの姿を静かに、ていねいに見つめたものだ。人間に向ける視線のやわらかさ、穏やかさによって、過ぎ去ったところにひそむ、だいじな部分がよみがえるのだ。見たもの、眼の前のものを大切にすること。決して、飛びこえたりはしないこと。心を装わないこと。いつまでも人間についての思いを、もちつづけること。そんな終極の世界を、鬼海弘雄の写真は、目に見えるように描いた。それは静かで、とても大きくて、貴重な営みだ。そこには、これまで多くの人が経験することのないものが示された。