ちくま学芸文庫

魅惑的な喚起力
ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』書評

読むこと、歩行、言い回し、職場での隠れ作業……。押しつけられた秩序を相手取って狡智をめぐらし、従いながらも「なんとかやっていく」無名の者の技芸を描く『日常的実践のポイエティーク』。多くの人を刺激し続けた本書の魅力はどこにあるのか。社会学者のケイン樹里安氏が、自身の経験を交えつつ論じて下さいました。

 魅惑的な喚起力。本書の魅力を一言で述べるならば、これしかない。

 なぜ、夢中になって読みふけってしまうのか。必ずしもわかりやすい言葉遣いではないし、折り目正しく理論と事例を解説する内容でもないのに。きっと、あまりにも何気なくて、ついスルーしてしまいそうな言葉の「あや」、些細なやりとり、さらには都市で歩きまわる様子からでさえ、人々の技芸(art)の意味を次々にすくいあげるセルトーの離れ業に、すっかり魅了されてしまうからだ。

 セルトーが見出すのは、人々が編みだす技芸の数々だ。圧倒的な不均衡や不平等、不公正な社会の仕組みに取り巻かれながらも、人々が「なんとかやっていく」ために編みだす多彩な「もののやりかた」である。植民地状況において征服者が押しつける体制を、拒否せずともまぬがれる技芸、苦しい状況をしのぐために駆使される語りの技など、さまざまな事例をあげながら、セルトーは読者の「ものの見方」を激しく揺さぶる。

 はじめてセルトーを読んだのは、大学院生になりたての頃だ。本屋で「ジャケ買い」した書籍やゼミの課題図書の参考文献に彼の名前が出て来るたびに、図書館で借りて何度も読み返した。

 スーパーの荷出しやレジ打ちに明け暮れ、深夜の野菜のカット工場などの日雇いバイトをしながら、先行研究がほとんど存在しない「ハーフ」をめぐる諸問題をテーマに掲げて右往左往しながら調査を始めた自分にとって、セルトーの本は、己を奮い立たせる栄養ドリンクのような存在だった。人々の実践の機微から社会の仕組みに迫ろうとするときに、本書が放つ魅惑的な喚起力は、力強い手がかりとなるからだ。

 その証左に、社会学やカルチュラル・スタディーズをはじめとするさまざまな学問領域において、人種化されたマイノリティの実践、テロリズムと愛郷心、ジェンダーの政治学、ミュージアムの思想、自動車と都市移動、ヒップホップと社会問題、パルクールのスポーツ性と公共空間など、実に多彩な研究の知的源泉となってきた。

 一方で、魅惑的な喚起力ゆえに、本書は「危険」な書籍として警戒もされている。たとえば、しばしば引用される「戦略/戦術」の議論は、調査者の分析が追いつかないままに「〇〇は戦術だ」という判を押すだけの文章を(特に若手研究者が)生み出しかねないと一部で評されてきた。さらに、「支配者側と被支配者側」という図式的な整理と、被支配者側の称揚に思われる議論も、かえってマイノリティの実践の切迫性や両義性を調査者に見誤らせる可能性がないわけではない。

 しかしながら、本書で論じられているとおり、読書とは「密猟」だ。セルトーの手つきを「密猟」し、己を奮い立たせてからあくまでも真摯に研究に向かえばよいのだ。さらに、「支配者側―被支配者側」という図式もそこまでわるいわけではない。あらゆる価値判断から空中浮遊しているかのような想定で「客観的中立」に社会問題を語ることで、抑圧者に有利な社会状況を現状追認する冷笑的等閑視に陥ってしまうより、幾分マシだろう。

 図書館で借りるか、某オンラインストアですさまじく値段がつりあげられたものを購入するほかない状況で、本書が文庫版として手に取りやすく世に放たれることは非常に喜ばしい(なお、僕が借りた図書館では表紙がはがされていたので、本書が可愛らしい表紙であることを知ったのは、高額な一冊を泣く泣く購入した後だった)。本書末尾の文庫版解説と共に、セルトーの議論を参照した社会学やカルチュラル・スタディーズの知見を「密猟」するのも知的好奇心を満たしてくれるはずだ。

 技芸を見抜く観察眼と時代状況に楔を打ち込む文体。セルトーの魅惑的な喚起力に触れる新たな読み手と、彼の議論に触発された新たな書き手の誕生が待たれる。あなたもきっと、読後に何かを語りたくなるはずだ。
 

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