筑摩選書

危機の時代における心理と思考

和辻による日本古典美の称揚、保田らの「日本浪曼派」、北原白秋や斎藤茂吉の戦争詩歌、三木の東亜協同体論や京都学派の「世界史の哲学」――。昭和戦前期、日本が軍国主義に傾斜するなかで、時代を代表する文化人もまたそのうねりに巻き込まれ、ときに主導的役割すら果たすようになります。彼らは「聖戦」に何を託したのか? その深層に迫る『日本回帰と文化人――昭和戦前期の理想と悲劇』より、「はじめに」を公開します。

 私の疑問はとても単純である。なぜ日本は、幕末維新の危機を乗り越えて曲がりなりにも近代化を成功させたにもかかわらず、昭和16(1941)年に無謀な戦争へと突入していったのか。それに先立つ1930年代に、どうして大陸の戦火を収拾して手を引くことができなかったのか。
 近代日本は幕末維新期から畏怖を含む西洋憧憬と、もっぱら虚構の日本への回帰願望を繰り返しながら文化を培っていった。が、昭和10年代になると日本回帰、日本賛美がエコーのように鳴り響くようになっていく。明治期には民間の自主自立の気概をも培ったナショナル・アイデンティティが、なぜ昭和戦前期になるともっぱら個人の自由を縛り、国民を一つの方向へと駆り立てる(依存せしむる)ものとなっていったのか。そこにどのような連続性と変転があったのか。
 1930年代は世界が危機に瀕した時代だったが、なかでも日本は死滅に向かって急傾斜していった。その意味で当時の日本は、世界の最先端を行っていたといえるのかもしれない。それは1929(昭和4)年にアメリカの株式市場暴落に端を発した世界恐慌が引き金だったとはいえ、以前から日本国内に積みあがっていた近代的発展の矛盾の飽和の現れでもあった。維新以来、日本は幾度も危機に直面してきたが、大筋では右肩上がりで発展してきた。だがその無理は濁った澱のように積み重なっていたのである。
 危機に遭遇した時、人は自らの良心と良識を試されることになる。世界恐慌下では日本だけでなくあらゆる国々が不穏な空気に覆われ、過激な政治思想や民族主義、あるいは人種差別的な優生思想が台頭した。第一次大戦後のヴェルサイユ体制は国際協調による平和の永続を希求して、限定的ながら帝国主義国家からの被支配民族の独立を認める民族自決権を支持し、列強諸国によるさらなる植民地拡張を抑制し、軍備縮小を進めるなどの協調的平和主義が図られた。日本の場合、軍縮条約による軍備削減は、財政健全化のためにも望まれることだったが、予算を絞られる軍部は当然ながら不満を抱き、長期的な財政立て直しよりも目先の景気刺激策を求める財界や肥大した国家意識を持った国民からも批判を招いた。
 日本は日露戦争の戦費を多額の外債で賄うことでようやく勝利を得たが、国内には格差拡大と慢性的貧困という現実を抱えていた。第一次世界大戦時には欧州が戦場になったため一時的に輸出が伸びて戦時好況を迎えた一方で物価の高騰を招き、戦後は欧州の産業生産力復活に押されて戦後恐慌をきたした。さらに関東大震災もあって、貿易商・生産会社・銀行などの倒産が続出し、多くの企業が日本銀行の特別融資と大蔵省預金部の救済資金によってようやく支えられる状況で、常態的不況のまま昭和に及んだ。
 それでも「一等国」意識や世界大戦(第一次)以降の「五大強国」入りで自己認識を肥大化させていた多くの国民にとっては、「強国」としての一層の拡張を望む威勢のいい声のほうが心地よく感じられたのである。あるいはむしろ、困窮しているからこそ強国意識に固執していたというべきなのかもしれない。
 経済恐慌下の日本では昭和6(1931)年に満州事変が勃発して国際的非難を浴び、翌7年に五・一五事件、11年に二・二六事件と軍部のクーデターが相次いで起きている。そして37年の盧溝橋事件を契機としてはじまった日本と中国の軍事衝突は、事変といわれながらも事実上の全面戦争となっていった。日本国内の日常生活も二・二六事件以降は急速に軍国主義に染められ、国家による各種統制が厳しくなった。
 だがそれに先立つ大正期から昭和初頭(1920年代)にかけては、都市部を中心に大衆レベルでの文化や娯楽の普及が見られていた。それは教育熱から円本ブームに至る教養主義、エロ・グロ・ナンセンスの大衆娯楽、そしてマルクス主義の浸透など様々な位相に及んだ。
 しかし世界恐慌以降、世界各国は生き残りをかけた自国優先の保護主義的政策をとるようになり、欧米先進国は国際連盟が理想に掲げた国際主義を後退させ、自国勢力圏を囲い込む保護主義的政策へと転じた。日本の場合、それは大陸での利権拡張に向かっていった。そもそも日本は欧米諸国に比べて経済基盤が脆弱だったが、昭和恐慌以降はいよいよ事態が切迫した。浜口雄幸内閣は日本の低コストを武器に輸出増加をはかってある程度成功し、さらに第一次大戦以来続いていた金輸出禁止を解く、いわゆる金解禁を断行したが、この直前にウォール街の株価大暴落が起きた。その結果、日本からは金が流出するばかりで、肝心の輸出はかえって縮小するという最悪の状況に陥った。輸出総額は昭和4年の46億円から5年の32億円、さらに8年には24億円と激減、国内通貨発行高は収縮し、物価は暴落した。
 都市生活も厳しかったが、農家の疲弊はそれにもまして顕著だった。ことに養蚕農家は、アメリカ向け輸出が多かった生糸の価格が恐慌による世界的不景気で一気に下落したため、大打撃を受け、昭和六年には東北や北海道が冷害による凶作で深刻な事態に陥った。都市部でも企業や銀行の破綻が続出。失業者が増え、農村でも都市部でも労働争議が頻発して、社会は一挙に不安定化した。
 その一方で維新以来、日本の人口は増え続けていた。江戸中期以降3000万人程度にとどまっていた人口は、近代化と同時にみるみる増え、昭和5年には6500万人に達していた。当時、日本の国土ではこれだけの人口を養うには足りないと考えられており、特に「農家の次三男に耕地を与え自立を促す」「失業者に職と希望を与える」ことが国家の急務とされ、大陸での勢力圏拡張は、そうした「持たざる庶民」にこそ強く望まれた面があった。
 こうした国家・国民のエゴはすべての国に程度の差こそあれ潜在しており、それが恐慌で露呈すると国家間の貿易障壁は増大し、優生学の浸透もあって国民の健康衛生への関心が高まる一方、「不健全な存在への排除のまなざし」、つまり人種差別や有病者、性的マイノリティへの偏見が1920年代より露骨になった。ナチス・ドイツがユダヤ人を差別排除し、また精神病患者や同性愛者にも弾圧的に臨んだことはよく知られているが、こうした政策は何もナチス・ドイツだけの現象ではなく、アメリカやフランス、イギリスでもかなり激しい人種的差別や同性愛者弾圧が起きていた。
 こうした事態を目の当たりにした西田幾多郎は、〈これまでは諸の国々は世界に於て横に並んでいた、世界は空間的であった。今は世界は縦の世界となった。時間的となった〉(『日本文化の問題』)と表現している。
日本はさらにもうひとつの困難を抱えていた。議会政治の行き詰まりである。明治23(1890)年にはじまった日本の議会政治は、昭和五年には施行40年を迎え、既に男子のみではあったものの納税等の資格制限のない普通選挙が実施され、二大政党制の議会政治がそれなりに成熟するなど、曲がりなりにも機能し、発展してきた。しかし公正性を期して実施された普通選挙の下で、労働者や農民らいわゆる無産有権者に対する買収が公然と行われて政治腐敗が深まる一方、人気取りのために実行不可能な公約が飛び交うポピュリズムが招来された。軍部が内閣のコントロールを離れて政治に介入する口実となった「統帥権干犯」というテーゼを、最初に議会に持ち出したのは、軍縮問題で政府与党を攻撃したいと考えた当時野党の犬養毅だった。その犬養がやがて首相となった際には、けっきょく財政再建のために軍事予算削減を考慮せねばならない立場となり、青年将校らが起こしたクーデターによって暗殺されることになるのは、何とも皮肉な事態と言わざるを得ない。
 その後も政争やクーデター、軍部による揺さぶりなどが続き、国民の政治不信にいっそう拍車をかけ、拡張主義的な軍部や国体明徴を叫ぶ国粋主義者の台頭を受け入れる素地が広がっていった。その一方でアナキズムやマルキシズムに対する弾圧は徹底したものとなり、やがてはリベラル派を追放しようとする運動にまで展開していくことになる。こうした動きは政治のみならず文化全般や生活面にまで及んだ。大正後期から昭和初頭にかけて都市部を中心に形成された市民文化の健全性は徐々に後退し、あるいは刹那的な爛熟状況となり、やがては禁じられていくことになる。
 だがそのような時代において、思想や文化面では「不思議な明るさ」が見られたともいわれている。当時の雰囲気を直接味わうことはできないが、例えば1930年代の大衆歌謡は大正オペラ時代の哀調とも、昭和初期の翻案ジャズやシャンソンとも違っている。『小さな喫茶店』はタンゴが原曲だが、『二人は若い』『東京ラプソディ』『一杯のコーヒーから』など、大陸で戦火が続いている時期の流行歌には「不思議な明るさ」がある。
 生活基盤が脅かされていると感じた人々は安定を願い、閉塞状況に置かれた人間は変化を希求するものだ。昭和戦前期の日本人を捉えたのは「日本精神」であり「日本回帰」だった。この曖昧な概念のなかに、人々は様々なものを見出したのである。ブルジョワ批判は左翼だけでなく右翼の主張でもあり、国家社会主義的な傾向が旧左翼を取り込んで力を増すという現象も起きていた。その文脈ではブルジョワ的文化は軽佻浮薄なアメリカニズムとして批判され、国家に奉仕する勤労の連帯や融和や等質性が「日本的」なものとして称揚されることになった。
 大正期には平和的な教養主義、耽美主義の主唱者として知られていた思想家や文学者もまた、「日本回帰」「日本賛美」に大きく関わってくることになる。例えば、それは和辻哲郎や阿部次郎、亀井勝一郎らによる日本古典美の称揚であり、保田与重郎ら「日本浪曼派」のデカダン美学であり(太宰治の〈アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ〉もその延長にあるといえよう)、北原白秋、萩原朔太郎、三好達治、高村光太郎らによる「日本回帰」「戦争詩歌」であり、三木清の「東亜協同体論」や京都学派の「世界史の哲学」であった。
 それは思想言論への統制が強化され、政府や軍部ヘの批判が封殺されたなかで書かれた妥協の産物だったが、一面では彼ら自身の内的欲求がなかったとは言えず、たしかに言論統制下だからこその抑制されたアイロニカルな文化思想の高揚でもあった。彼らの言説は単純に時局に妥協迎合したものではなく、そこにはぎりぎりの抵抗も見受けられれば、実際に作者自身にとっては真実であっただろう日本美の再発見もあった。しかも伝統的日本美の再発見は、非伝統的で狭量な現代(当時の)日本への批判ともなり得るものであり、メフィストフェレス的にあえて誤読を誘う表現で批判を賛美のように語る口調も見られた。もっともそのなかには、今でも意図を正しく理解されていないものもあるように思う。
 ある時代における進歩的思想や改革への努力が、後の時代からみれば不十分であるがゆえに反動的とすら見えることがままあり、また人それぞれの立場によっても見え方は違ってくるものである。本書で取り上げる人々の思想は、その時代状況や立ち位置を考慮しないと真意が見えにくいものが少なくない。
 左右どちらの立場から見ても、好ましくない負の部分を帯びていることもあって、昭和10年代の日本文化は開戦から80年の今日でも、批判的な距離を置いてでなければ接することの難しい領域となっている。だがそれは、そうした弾圧期におけるリベラルな思想家たちの抵抗と挫折の意味に対しても、きちんと向き合おうとしない態度といわざるを得ない。また当時の日本を席巻した「日本への回帰」「日本主義」「日本精神」「日本美称賛」「愛国運動」の文化的側面を、単に政治に従属したプロパガンダとしてしか理解しないことは、個々の国民感情や作家・学者の営為に内的必然性や自己の課題の投影を見ようとしない、きわめて浅薄な捉え方と言わざるを得ない。それもまた政治に囚われた偏狭な姿勢ということになるだろう。
 もちろん何事にも例外はあり、戦時体制から戦中に至る思想運動を肯定的に評価する論者もいないわけではない。しかしそうした論考は、紋切り型の批判と同様に、紋切り型の肯定に陥りがちで、当時の日本賛美を無批判に再現するかのような政治的境地へと収斂していくことが多い。これもまた別の意味で個々の作家や学者の内的問題を無視したものにすぎないだろう。
 当時の思想家や文学者、哲学者らが語る世界論や日本文化論には、日本社会の全体主義への傾斜に対して、全面的な共感を示したというよりは、日本の歴史文化に対する認識や全体主義そのものの文化的意義づけの修正、ひいては政策の転換を求めているものが少なくない。同時にそこには美学的な暗い衝動の共感が語られているのだが、当時の文芸や思想に理知的な明晰さや創造意欲の高揚を認めることは、今でも禁じられている感があり、彼らの思念――当時好まれた言い方をするなら玲瓏なロゴスと鬱勃たるパトスの統合――を「私たちの問題」として引き受けることを拒んできた。
 本書では主に昭和戦前期の代表的な文学者や哲学者の「日本回帰」的作品を通して、彼らが考えた「日本的」なものとは何だったのか、その日本的なものと「世界的」「東亜的」なものとの関係はどのように理解されていたのかを考えてみたい。この行為は、必然的に現代における極端に単純化された日本観への批判ともなるだろう。そしてまた、政治的困難に対して文化的言説に何が可能であり、また発信者の意図をゆがめて利用されないためにはいかなる配慮が必要なのかをも考えるひとつの機会となればと願っている。