覚猷(かくゆう)[1]僧正、臨終の時、処分すべき由(よし)、弟子らこれを勧む。再三の後、硯(すずり)紙等を乞ひ寄せ、これを書くなり。その状にいはく「処分は腕力によるべし」と云々(うんぬん)。遂に入滅す。その後、白川院[2]、この事をきこしめし、房中しかるべき弟子、後見などを召し寄せて、遺財等を注(しる)さしめ、えしもいはず分配し給ふ、と云々。
[1]覚猷 1053〜1140。源隆国(たかくに)の子。覚円の弟子。四天王寺別当・園城寺長吏(おんじょうじちょうり)・天台座主・法成寺(ほうじょうじ)別当・法勝寺(ほっしょうじ)別当。大僧正。鳥羽離宮に住み、鳥羽僧正と呼ばれた。画業に秀で、鳥羽絵の祖とされ、『鳥獣人物戯画』の作者に擬せられる。
[2]白川院 1053〜1129。覚猷死亡時にすでに故人。当時の天皇は崇徳(1119〜64。在位1123〜41)で、治天の君は鳥羽院(院政1129〜56)。
訳 覚猷僧正が臨終の時、遺産分配をするよう、弟子達が勧めた。再三頼んだところ、硯と紙を持って来させて遺言状を書いた。そこには「遺産分配は腕力で決めるように」とあった。そして亡くなった。その後、この話をお聞きになった白河院(実際は鳥羽院か)は、覚猷の房の主立った弟子や補佐役などを集め、遺産の目録を作らせ、見事に分配なさった。
評 財産分与は腕力で、とは、僧侶らしからぬふざけた遺言だが、当時は僧兵による強訴(ごうそ)など、僧侶の武装化が著しい時期、「今はやりの武力で決めよ」という風刺でもある。噂を聞いた院が采配して、見事な遺産分配がなされたが、院の介入を期待しての遺言だったかは分からない。覚猷の悪ふざけの有様は、『宇治拾遺物語』三七に、画業に優れた弟子に因縁をつけ容赦なく言い返された逸話が、『古今著聞集』画図に見える。
*一部ルビを割愛しています