ちくま学芸文庫

「滅私奉公」は内面化されたのか?
広田照幸『陸軍将校の教育社会史』解説より

戦時体制を支えた陸軍将校とはいったいどういう存在だったのかを問うた『陸軍将校の教育社会史』。本書の読みどころや意義について、『江戸の知識から明治の政治へ』などの著作がある、立教大学教授の松田宏一郎さんによる解説を転載します。


 体系化されたカリキュラムに基づく知識教育と一定の実地訓練をこなさなければ就くことのできない職業を、一般に専門職(プロフェッション。その職能団体を指すこともある)と呼ぶ。だいたいは法制度や同業者による認証制度でそうなっているが、すぐに思い浮かぶのは医師や法律家である。そして、軍の将校も典型的な専門職である。専門職としての将校の登場は近代化の重要な指標の一つと見なされ、一九九〇年頃までには、アメリカやヨーロッパで、将校教育のシステムや当事者の社会的役割・立場の自己認識について、社会学・歴史学などの分野で相当の研究蓄積ができていた。これに対し日本では、歴史社会学的分析対象として深いレベルで専門職としての将校を検討した業績と呼べるものは、広田さん(同世代であり、また親しみと敬意を込めてこう呼ばせていただく)の本書が登場するまではほとんどなかった。麻生誠・潮木守一・天野郁夫らの教育社会学者によって、明治以降の日本の高等教育制度やそこで教育を受けた人々の意識などの研究の蓄積がなされてきてはいたが、職業軍人に焦点を絞った研究はあまり進んでいなかった。将校や兵士の証言をまとめたり、経験に基づく観察とその考察を紹介・論評したものはそれなりにあったとはいえ、学問世界で忌避感があったのであろう。軍国主義の暴走が日本社会を壊滅させかかった第二次世界大戦の記憶のため、冷静な学問的観察が難しかったのかもしれない。

『陸軍将校の教育社会史』は、一九九七年に出版された当時、広田さんの狭義の専門領域である教育社会学のみならず、広く歴史学、社会学、政治思想などの分野で注目を集め、高い評価を得た。そして現在でも近代日本のエリート形成、国家イデオロギーと教育、軍隊と社会の関係などを考察するにあたって必読書であり続けている。今回、文庫の形で新しい読者の眼に触れる機会が増えることは大変意義がある。



 広田さんは、現在の教育政策への提言、戦後の教育言説(たとえば「しつけ」とか「教育改革」とか)の丁寧なデータ分析を伴う検証でもよく知られており、一般の読者にはそちらの方になじみがあるかもしれない。より専門的な研究でも、少年院教育の調査分析や、内部資料や貴重なインタビューをふまえた日教組の歴史などで、重要な成果を挙げ続けている。徹底的に調査をし、海外の最新の研究成果にも目配りし、発信を怠らない、常に最前線にいる研究者である。若手を組み込んだチームによる調査や研究成果の発表も多く、次の世代の研究者の育成に意識的に配慮している。その意味で教育者としても最前線にいる。

 政治思想研究をしている筆者が広田さんと知り合ったのは、一九九〇年代の初めであった。その頃広田さんは、本書にまとめられたテーマと並行して、徳川時代に世襲であった武士階級が、どうやって明治以降に官吏・軍人・警官・教師など近代国家が必要とする職業の担い手になっていったのかを、丹波篠山の士族の史料調査を踏まえて研究していた。筆者は幕末の政治思想が西洋の異質な思想に触れ変化していく過程を研究していたため、広田さんの論文に興味を持っていたところ、たまたま共同研究で一緒になる機会があった。広田さんからは、研究テーマに関する具体的な知見はもちろんのこと、より広く近代国家の人材教育や選抜・昇進システムに関する社会学的分析の動向や必読文献についても教わった。その頃から武士の近代型プロフェッションへの転換研究と将校教育への関心とは広田さんの中でつながっていたと思われる。

 広田さんの問いの基礎にあるのは、教育という事象の一般的な捉え方そのものに対する深く大きな懐疑である。現在でも、教師が教科書とカリキュラムに沿って教え、生徒・学生の側では教えられたことが「内面化」され、それが行動を生み出すといった一連のプロセスとして教育が語られることは多い。ところが、近代国家が国民に要求する価値・態度を「内面化」するプロセスとして教育に期待すると、思ったほど成果はあがっていない。具体的な事例を分析すると、むしろ現場の教師や教育を受ける生徒の「したたかさ」や「微妙」な態度こそが、教育の結果出来上がった人々の政治的・社会的態度や行動を決定している。そのことがはっきりと現れるのが、国家の意図、教育の目的、実際に任務についたときの行動について、一定のまとまりをもった記録があり、またデータ化に向いている軍人教育である。



 西洋型の士官教育の導入は、幕末の徳川家によって萌芽的に試みられたものの、その本格的推進は明治政府によってなされた。学力試験による序列化と卒業成績によってその後の昇進が決まる仕組み(メリトクラシー)は、着実に機能し始めたように思われた。当初、明治期の士官希望者には旧武士階級出身者が多かったが、旧体制の武士的な態度とコネクションが執拗に持続していたのかというと、そうでもない。将校の士族出身者の割合は早くも明治二〇年代には減少に向かった。また、同時期の西洋の軍人と比較すると、もともと日本の武士階級には貴族主義的カルチャーが希薄であった。ということは、明治になって武士の世襲制が廃止されると、出自にかかわらず能力さえあれば成功する可能性が高そうであり、当初はそれに期待する傾向も強かった。西洋との比較で類型的に言えば、中産階級を出自とする専門職の地位が高まってくる雰囲気に近い。

 ところが、本書で具体的な事例とデータ分析によって明らかにされるように、「立身出世」ルートとしての士官学校の魅力は、他の高等教育ルートが整うにつれ意外と早く相対的に低下した。しかも大正期から、武官の子弟が陸軍幼年学校に占める比率が高まって二世化現象が見られ、必ずしも若者一般の上昇意欲に応えることができなくなった。ポストが無限にあるわけではないため、昇進競争は厳しくなり、退役後の生活不安という問題は隠されていた。上に厚く若手に薄い俸給システム、退職が早く再就職口が少ないという事情を改善することは難しかった。また、第一次大戦後の軍縮と軍の機械化は職業軍人の待遇改善と背反する潮流だった。将校への道が再び人気を取り戻すのは、一九三〇年代以降の対外侵攻の活発化と戦時体制の展開に伴ってである。満州事変後局面が変わり、将校の人気は急上昇する。ただしその人気にも地域的偏りがあり、また富裕層は依然として士官学校より高校の方が好ましいと考えていた。ここから軍人と文官エリートでは、社会集団としての性格やカルチャーの分化が進行していった。

 将校の地位の、教育・選抜プロセスを切り抜けて勝ち取る「立身出世」としての魅力の低下は、教育現場における「精神教育」の強化という逆説的な傾向を生み出した。本書で鋭く指摘されるように、軍人教育の精神主義は軍国主義イデオロギーが社会的に強まったことを反映したのではなく、むしろ軍人の地位があまり評価されないという焦燥感からきていた。焦りはあるがヴィジョンがはっきりしていないため、「軍人勅諭」教育は内容の理解ではなく「坊主の読経」と化し、「軍人精神訓」は軍人の役割を明確にするのではなく、情緒的共感を狙うエピソードの羅列となる。将来の昇進は卒業成績にかかっており、その序列化が必須なので、教師は成績をつけなければならない。「勅諭」のテストがあるが、最も評価される答案は綿密な思考や分析の成果ではなく、当たり障りのない語句の抜き書きとなる。あまり考えた答案は点数が下がる。興味深いことに、どれだけ天皇と国家への献身が説かれても、自己の栄達は否定されない。これをはずしたらこの教育の魅力はなくなるからである。陸軍士官学校予科の「倫理」科目の狙いに「批判力を養う」ことさえも説かれているが、これは自己の思考プロセスを反省する能力という意味の「批判」ではなく、軍に都合の悪い考え方や態度を嗅ぎ分ける能力を指す。現代の学校教育で道徳の教科化を賞賛する人たちは、これを理想の教育と考えるのであろう。

 生徒の「自覚」・「自治」も当時のキーワードである。これは個人の自己規律ではなく、年次序列による集団的自主管理を促す言葉である。戦前の日本では(もしかすると現在でも?)、中央政府が強権をもって命令するのではなく、地域や職業集団単位で「自発的に」同調を強制し相互に監視するシステムがうまく働くことを「自治」と呼び、それが皮肉なことに政策となって国家予算がつくのは、おかしいことではなかった。士官学校にもその応用ケースがあったわけである。「自治」のかけ声の下に、規則遵守を強化するための自発的討論と相互監視・制裁が運用された。当事者からするとそれ以外にセルフ・ガバメントのやり方などあるのか、という感覚だったであろう。フーコーが知っていたら喜びそうな事例である。旧日本軍の教育こそが最も成功した「近代」であると。

 卒業し将校となったら、今度は一般兵卒に対する教育者ともならなければならない。エピソードを用いた訓話による情緒的な教育から始めて、天皇制イデオロギーの世界観による指導ができるように、教える側も自己修養することが求められる。教育者としての成果は、受け手である兵士の日記を点検することで確認される。もちろん兵士は精神教育が十分に自己の内面に定着したかのように見せるため定型的な日記を書く。結局、精神の内部を本当にのぞくことはできず、常に疑わしいので、日常的な挙動のチェックや身体訓練の強化で精神教育の成果を確認せざるを得ない。教育方法が画一化すると兵士の反応も画一化するので、「個性に適応」した教育という文言すら一九二七年の「軍隊教育令」には登場する。これは実際には兵士の身上調査書の項目を細かくすることを意味していた。やはり精神教育がうまくいっていないという不安がのしかかっていたからである。この不安は、上層部が立てる方針と実際の教育・訓練現場との摩擦という、おなじみの矛盾や機能不全によって一層駆り立てられる。現代の通達・作文行政と同じである。

 一九三〇年代以降の戦時体制の強化は、職業軍人にとどまらず、体制の要求する「精神」を社会的上昇の足がかりにしようとする新しい期待とそれに見合った態度を生み出した。憲兵、一般兵士、在満支邦人、教師などの具体例を紹介しつつ、その様相が明らかにされる。たとえば「師範タイプ」教師の「誠心誠意」のメンタリティの分析は鮮やかである。「自分一身のことを考へず、公のためにすべてを捧げて暮らす」生活態度を心がけるという回答が師範学校卒には非常に多い(『昭和十五年度壮丁思想調査』)。しかし、戦後のインタビューなどで明らかになるように、教師自身はそのイデオロギーを内面化していない。自分が信じていない価値を「誠心誠意」教えるのがその職業倫理であり、「認められたい」という欲求とそれがセットになっていた(本書第Ⅲ部第二章)。



 広田さんは本書によって、近代日本の将校教育が、国家イデオロギーの注入による「滅私奉公」の内面化などではなく、与えられたシステムの中での上昇機会を探る若者の生存戦略と、それに頼らざるを得ない軍組織の相互依存(「活私奉公」)であったこと、つまり自己利益の極大化とシステムの維持の共存として理解する視点を提示した。戦時期の精神状態を、心情的な国家への忠誠の暴走とみなすロマンティックな理解は、戦後、後知恵的に構築されたものである。

 これらの指摘は、政治思想史の研究をしている筆者にとって、非常に刺激的であると同時に大変納得させられるものである。筆者のように知識人の文章を主として研究していると、思想らしきものが人々を説得していくプロセスを当然のように考えてしまう傾向があるが、言説が人々に働きかける現場は、ほとんどシステムと個人との生存戦略の不安定なもたれ合いである。広田さんは、印象論のもっともらしい開陳や断片的証言のつぎはぎをせず、可能な限り量的なデータと証言とを突き合わせて仮説を検証する、社会学者として正しい手続きを必ずとるので、その主張の信頼性は確保されている。そのためこちらとしては安心して、本書が示す事例と分析を基礎として、近代組織におけるエリート教育とは何かを深く考えることができる。

 本書のような成果が新しい読者を獲得して、さらに次の世代にその方法論が継承されていくことが望ましい。ところが広田さんは、「教育の歴史社会学」が行き詰まりの徴候を見せているのではないかと懸念を示したことがある(「教育の歴史社会学―その展開と課題」『社会科学研究』五七、二〇〇六年)。若手の研究者が「大きな問い」を立てることを忌避しているのではないかという心配である。これは、教育社会学だけではなく、歴史研究を柱とする分野では共通の問題である。そしてこの現象自体が、広田さんが本書で明らかにした、システムと生存戦略のもたれあいと同型に見える。つまり現代日本の学問がかつての士官教育のようなものに変質しているのかもしれない。

 教育は知を開くためにあることが理念的には期待される。しかしそれが固く閉じていく方向に制度化され運用されるとどうなるか、その症例が日本軍の将校教育には顕著に示されている。現代日本の学校教育や高度な専門家養成がこの執拗に作用する閉止傾向から逃れられていないことは、本書の随所で大方の読者が否応なしに気づかされることであろう。広田さんの問いかけは、研究者だけの特殊な関心にのみ向けられているのではなく、広く教育の将来を考える人々への問いかけである。

 近代日本の専門職は、国家が与えるミッションを遂行することが存在理由だった。将校教育はその理念を最も率直に制度化したものである。しかし本書を手に取る読者は、専門職が奉仕すべき人々・利益・理念が、あらかじめ国家から定義され限定されているものだけとは限らなくなった現代の複雑な状況の中で、専門職の役割について考えなければならない。医療・法律は当然のこと、軍事活動すらも特定の国の枠を超えた利益や価値と無関係ではない。そのような状況だからこそ、国家に奉仕する者を「内面」から鍛え上げようとする将校教育が、その中で生きた人々に実際どのように経験され、どのような効果と失敗を生んだのかを冷静に理解する必要がある。
 

 

 


戦時体制を支えた精神構造は、
「滅私奉公」ではなく「活私奉公」だった。
第19回サントリー学芸賞を受賞した
教育社会史の傑作が、待望の文庫化!