本書の著者戸部良一氏は、戦前期の日本を研究する実証的歴史家である。精緻にしてバランスのとれた氏の研究は、学界と読者の篤い信頼を集めている。
一般に、史家にも二つのタイプがある。一方は、原資料にもとづく実証を重視し、過去の歴史のあったままを再生することに情熱を注ぐタイプである。他方は、史家自身の視角や現在の問題意識を優越させ、それを過去に投影し、新たな視角で過去を読み解こうとするタイプである。
対照的な二極に見えて、実はどの歴史家にも存在する二要素である。前者一辺倒に傾けば、史料をホッチキスで綴じたような退屈な事実記述の山に陥りかねない。確かな実証を通して、歴史にひそむ大小の水脈を読み取る洞察力なしによき記述は生れない。他方、後者に傾き過ぎれば、言いたいことは分るが、その時代の歴史としては粗すぎ一面的すぎるということになる。その時代への内在的理解を欠いては、風雪に耐える史論とはならない。
戸部氏の場合、外交文書や戦史資料を縦横に読みこなす実証史家であることは誰もが認める通りである。ただ特徴的なのは、詳細な事実の発掘に情熱を注ぐというよりも、大局的な全体像を常に意識し、その中に大小の事象を意味づける記述が優越している。それゆえ読みやすく、読むうちに引き込まれる。そして、かなり鮮明な問題意識によってテーマが選ばれ、論じられている。この度、氏の作品をいくつか読み返してみて、そう感じた。氏の諸研究を、よく出来た実証的な歴史記述として読むだけでなく、史論の展開として読む必要を再認識した。
戸部氏が京都大学法学部に入学する少し前に、政治学の泰斗、猪木正道教授がそれまでのドイツやロシアの革命史、あるいは独裁の政治思想の講義から転じて、新たに日本政治外交史の講義を開始した。それは、大正期から昭和戦前期の政治プロセスを生き生きとダイナミックに語りつつ、軍部支配を厳しく批判するものであった。戸部氏が日中戦争期を研究テーマとするに至ったのは、その影響ではないかと想像するが、猪木教授は一九七〇年に京都大学を去り、防衛大学校長となった。その後、学部・大学院時代を通じて氏は高坂正堯教授に師事したが、国際政治と外交政策を専門とする教授は、実証的外交史に敬意を表し、その話を聞くことを好んだ。猪木・高坂両教授とも、教え子の指導に際しては現場に赴き原資料にあたる実証の基本的重要性を強調したが、それでいて実証を通しての解釈と意味づけこそ、歴史研究者に最重要であるとの観点が鮮明であった。
一九七六年に京都大学大学院博士課程を終えて、戸部氏は防衛大学校に赴任した。幹部自衛官を養成する防大において、戦前の軍部の時代の政治外交史を講ずることになった。世の中には防大教育が戦前の陸軍に親和的な立場に傾くのではないかと邪推する向きもあるが、そうではない。防大を中心にした戸部氏を含む六名の教授による共同研究は一九八四年に『失敗の本質』と題して発刊され、ロングセラーとなったが、それはノモンハンから沖縄戦に至る六つの戦場で日本軍はなぜ誤ったかを組織論的・学術的に分析するものであった。戦前の失敗を冷静に分析し、そこから教訓を学んで、戦後の日本が過去を克服することを期する共同研究であり、戸部氏はその歴史実証面を主に担ったことであろう。
以上のような環境に身を置いてきた戸部氏は、それまでの『ピース・フィーラー』やその他の論文に加えて、五〇歳になる頃から独創的な三つの著作を生み出すに至る。『逆説の軍隊』(一九九八年)、本書『日本陸軍と中国――「支那通」にみる夢と蹉跌』(一九九九年)、および『外務省革新派』(二〇一〇年)である。これら三つの名著は、いずれも日本帝国の戦争への没入と、昭和二〇年の日本帝国の滅亡をもたらした主要なアクターを追跡する研究である。
『逆説の軍隊』は、「戦争という人間の行為のなかで最も非合理的な行為を実践する、最も合理的な組織である」といわれる軍隊が、戦前日本の場合、なぜ、どこからファナティックな組織に転じたのかを検証する作品である。二〇世紀を迎える北清事変(義和団の乱)の際には、日本軍の規律は国際的に模範と見られさえしたというのに。
『外務省革新派』は、ワシントン体制下、親米派の幣原外交が一九二〇年代に君臨したのに対し、アジア主義的な要素を含み込む重光葵、広田弘毅、有田八郎らが満州事変以後には中心的役割を果すようになった。が、それにもあき足りず、白鳥敏夫をリーダーに揚げて親独伊的・親陸軍的に徹底した外交刷新と新秩序を主張する革新派が、外務省を揺さぶった。「革新派」の役割と帰結を、第一次大戦後のパリ講和会議から第二次大戦後に至るまでたどった作品である。軍部だけが日本を戦争の時代へと引き廻したわけではない。軍部の被害者とみなされがちな外務省の内部もかくの如くであった。
さて、陸軍「支那通」を論ずる本書である。先に述べたように、戸部氏は『逆説の軍隊』において、非合理的なファナティシズムに大きく傾斜した日本陸軍の問題性を十全に論じた。その上に、なぜ陸軍「支那通」を取り上げねばならなかったのか。私の理解を述べれば次の通りである。
日本帝国はなぜ滅亡せねばならなかったのか。それは世界を敵とする戦争にのめり込んだからであるが、端的にいえば、アメリカに敗れた。どうして太平洋の彼方の巨大国と戦争などやらかしたのか。再び端的にいえば、中国と抜き差しならない戦争に深入りしたからである。対中関係の破綻が、日本を対米戦争に導いた。では、なぜ日本は中国との果てしない戦争に陥ったのか。一九世紀なかばのアヘン戦争以後衰退し、乱れに乱れる中国(清朝)への認識を誤ったからである。同じ時期、日本は非西洋社会の中で機敏に近代化に成功し、西洋列強と肩を並べてやって行ける国に急浮上した。その自負心をもって沈む中国を見る時、どのような認識が生れるのか。誰が対中認識をリードするのか。対中認識の先端部分を担い、結局は陸軍全体と、さらには日本全体を大きく動かすことになったのが、陸軍「支那通」と称される人々である。
本書は、日本陸軍が清朝末期から辛亥革命を経て、一九三〇年代まで中国内政に深入りして行くプロセスを、的確・鮮明に描き出す。その内容は本書をお読みいただくとして、いくつか注目される点を指摘したい。
まず、彼らの中国認識の構成要因である。第一には、清朝末期以降の乱れを見て、中国人には自国を統治する能力なし、と断ずる。瞬間風速的事態とは考えず、不変の国民性であるかのように決め込む。第二に、乱れる中国に対し日本が距離を保ち、自制することをよしとしない。日本が統治の労をとってやるべきだと思い入れる。それには中国への一方的な情愛と支配意志が混在する。第三に、西洋列強のアジア進出に対し、「東亜保全」を至上命題とし、それにより中国内政への関与を動機づける。第四に、中国が以上を理解せず、日本に背を向ける時、日本は断乎として力を行使してでも従わせねばならない。中国人は、増長傲慢になりやすいので、力を見せつける必要があるとし、中国の軍事的併呑すら視野に入れた。
初期の有力な支那通であった青木宣純は、日露戦争時に袁世凱の軍事顧問となっており、ロシアの極東進出に対し日清共同で情報活動と破壊工作を行うことにつき同意を得た。
その後、清朝滅亡後に至るまで政局をリードしたのは袁世凱であったが、その軍事顧問として圧倒的な立場を築いたのが、坂西利八郎であった。なかなかの器量人であり、袁の没落後は段祺瑞にも厚く信頼され、西原借款を推進した。こうした中心人物だけでなく、中国各地の大小軍閥のほとんどすべてに、日本陸軍「支那通」が顧問などとしてはりついた。その情報収拾力は外務省の及びもつかないほどのものとなった。のみならず影響力行使や様々な政治工作も可能となった。ただ、それは一方向ではなく、中国側も日本を操作できることを意味し、画策しているつもりが実は踊らされていたことも少なくないとしている。
軍閥割拠の抗争に連動する日本陸軍の支那通という構図では、将来を誤ることになると認識したのが、本書の中心人物である佐々木到一であった。彼は孫文と知り合い、その新しい時代の思想と人物に共感した。南方の三民主義に立つ運動は、軍閥抗争を超える新しい中国の大義とナショナリズムを体現しており、日本はこれを理解し支援すべきだと主張した。
蒋介石が共産党を排除したうえ、一九二八年に北伐を再開した時、佐々木は従軍を申し入れて許可された。しかし中国の革命気運の高まりは、日本帝国主義への敵意をも高めた。北伐に対し、田中義一内閣は二度目の山東出兵を行って、日本権益と居留民を守ろうとした。済南で日中両軍が衝突し、佐々木はその中で集団暴行にあい、リンチの中で生死の際をさまよう事態となった。これが、日本陸軍の中で、支那通の中で、誰よりも国民革命にあたたかい理解を示した者への答礼か。「今にみよ」。佐々木は信義を裏切った者に天譴を下さねばならぬ、と報復を自らに許した。暴慢の中国に対し、日本は自制し、引くべきだと説く者は、陸軍内に見当らなかった。
隣国中国との距離のとり方は難しい。
東京裁判のため巣鴨に収監された重光葵は、戦前の歴史を振り返り、日本は大陸の権益について、「着実に行詰る」他はなかった、と悔悟を口にした。軍事力をもって中国ナショナリズムを破壊しようとすべきではなかった。正しい回顧かもしれないが、現役時代の彼は陸軍「支那通」と日本国民をその線で説得することはできなかった。粗暴さを伴う隣国のナショナリズムを認めることができず、終りのない大陸での戦争にのめりこみ、「ABCD」と呼ばれた日本包囲網に対し、それら諸国すべてとの戦争に踏み切り、ついに昭和二〇年の帝国の滅亡に至る一つの脈絡がそこにあろう。
戦後も中国認識は難しい。国交回復後、日中友好がナイーブに謳われた時期もあったが長くは続かない。共通利益にもとづく相互関係や戦略的互恵関係といった妥当な提案がなされたこともあるが、安定しない。そして今や軍事的・経済的に強者となった中国が、尖閣諸島や南シナ海の支配権を求めて行動する局面に至っている。戦前・戦後を通じて、われわれは全うな中国認識をつかみ切れずにいるのかもしれない。であるとすれば、戦前の夢とその蹉跌を、今一度かみしめてよいのではないか。
著者は本書の「あとがき」に、中国認識を「支那通」が誤ったのは、中国が「他者」であるとの認識を彼らが欠いたからだと、生前の江藤淳氏が指摘したと記している。それは印象深い言葉である。もう一つ「支那通」に欠けていたのは、抜群の中国知識、地方勢力の細部に至るまでの知識やそれを活用する情熱と行動力を持ちながら、実は大局が見えていない。中国を長い歴史の中で見ることができなかったし、国際政治の中国以外の重要な諸要因を見ることができなかった。彼らはまことによくできる力強い人々だったが、教養を欠いた戦士たちだった。私には本書がそう告げているように感じられた。それを超えることは、今日のわれわれにとっても容易なことではない、そう著者は謙虚に語りかけているのではなかろうか。