ちくま学芸文庫

諸君は間違っている!ー近代建築の過激な夜明け

アドルフ・ロース『装飾と犯罪』より

近代建築の先駆者アドルフ・ロース。内部空間そのものの造形を第一義と唱える彼は、イミテーションを貼付けたハリボテのごとき建築、書割りのごとき都市のありさまを激しく批判する。急速な変化を遂げる世紀末・20世紀初頭、皮肉に満ちた容赦ない舌鋒が、近代建築の地平を切り拓く、ロース『装飾と犯罪』の一節「装飾と犯罪」より一部を公開します。

 (……)

 自分の顔を飾りたてたい、そして自分の身の回りのものすべてに装飾を施したい。そうした衝動こそ造形芸術の起源である。それは美術の稚拙な表現だともいえよう。また芸術はすべて、エロティックなものだ。(……)

 だが我々の時代で、内なる衝動から壁にエロティックなシンボルを落書きするような者は、犯罪者か変質者である。ところで、人がそうした変質的な衝動に最も駆られるのは、便所の中だということは、当然である。となると、一国の文化の程度は、便所の壁の落書きの程度によって推し測ることができるというものだ。子供にあっては、そんなことは極く自然な現象である。子供の最初の芸術表現とは、壁にエロティックなシンボルを落書きすることである。しかし、パプア人や子供達にあって極く自然なことが、近代人にあっては変質的行為なのである。かくして私は次のような認識に到達し、これを世界の人々に説いた。文化の進化とは日常使用するものから装飾を除くということと同義である。私はこれを説くことによって世界の人々に福音を与えようと思ったのだが、実際は感謝もされなかった。人はこれを聞いて喜ぶどころか、がっかりし気を落した。なによりも人々を憂鬱にさせたのは、新しいかたちの装飾を生みだしてはならない、ということを知ったことである。(……)

 数千年前の古代人が作った、装飾などが施されていないものは、一顧だにもされず放置され、破壊されるに任されてきた。だからカロリング朝時代に使われた鉋かけ台などの大工道具のひとつさえ、我々には残されていないのだが、他方、どんな僅かでも装飾が施されたものなら、どんなつまらぬガラクタでも収集され、きれいに手が入れられた。そしてそれらガラクタを保存する立派な宮殿が建てられたのである。そこに陳列された陳列棚の間を悲し気に行きつ戻りつしながら、十九世紀の人間達は己の無能さを恥じるのである。そして、どんな時代にも、その時代に個有の様式があった。にも拘らず、何故、我々の時代にはそれが否定されるのかと、嘆くのである。その様式という言葉は装飾を意味したのである。そこで私は言った。そんなに嘆き悲しむことはない! 考えてもみるがいい。我々の時代には、新しいかたちの装飾が生みだされないことこそ、我々の時代が偉大なることの証しなのではないか。我々は装飾を克服したのであり、装飾がなくとも生きていけるようになったのである、と。見よ、それが完全に実現される時代は直ぐ目の前に迫っているのだ。間もなく、都市の街路という街路が白壁のようにひかり輝く日がくることだろう。聖なる都市、天国の主都シオンのようにひかり輝く日が。そうした日がきたなら、実現されたといえよう。

 しかしながら、世の中にはそうしたことを許せない変り者がいるものだ。もしそうした変り者の主張通りになったなら、人類は将来とも装飾の奴隷となって、それから解放されることなく生き続けねばならないではないか。だが装飾を見ても、もう喜びを感じないほど人々は成長したのだ。パプア人と違って、刺青をした顔は美感を増したとは思えないし、否、逆に美感を損ねるとさえ思うほど成長したのである。表面がプレーンに仕上げられたシガレット・ケースに心地良さを感じとるようになったのであり、反対に装飾が施されたシガレット・ケースは、たとえ同じ値段だとしても、気に入らないから買わない。これほど人々は成長したのだ。人々は近代的な服装で装うことに幸福を感じ、だからまるで年の市のお祭りでみられる猿まわしの猿のように、金のレースで縁取りした赤いビロードのズボンなぞ、はかないで済むようになったことをうれしく思うのである。また私はこうも言った。考えてもみるがいい。ゲーテの臨終の部屋は、ルネサンス時代の建物のどんな荘厳な部屋よりも厳粛であるし、プレーンな簡素なつくりの家具の方が、象嵌をちりばめ、いろいろ彫刻を施した豪華な、博物館にでも陳列されているような家具よりも美しい。またゲーテの詩文の方が、当時のニュールンベルク派の詩人達のあのアレゴリーで飾り立てた詩文より、よほど美しくはないか? と。

 これを聞いて気に入らないのは、例の変り者達である。そして国民の文化的発展に歯止めをするのが自己の努めと心得るこの国は、自己の有利になるように装飾を復権させ、これを発展させたらどうかと諮問したのである。 ―― だがこのような国が平穏無事では済まされまい。その体制の転覆、革命を、こともあろうに当の枢密顧問官達が画策するような国家では ―― 。やがてほどなく、ウィーンの工芸博物館において、「無数の魚の群れ」と名付けられた食器棚だとか、「呪われた皇妃」と名付けられたたんすといったような、施された装飾に因んだ名称が付けられた不運な家具達が陳列されるようになった。またオーストリア国家はそうした自己の努めを誠実に遂行するあまり、なんと兵士達が昔からはいていたゲートルがオーストリア・ハンガリー二重帝国から、決してなくならないような施策もとったのである。つまりむこう三年間の兵役につく二十歳の、文化的にも十分洗練された青年達に、昔ながらのゲートルを、そんなものよりよほど効果的な靴下でなくてゲートルを着用するように強要したのである。何故なら、どんな国家でも究極的には、国民を馬鹿にしておけばそれだけ治め易い、と考えるからである。

 さて、それはそれとして、装飾熱なる病理はかくして国家より公認され、国家予算の中から補助金を受けることとなったのである。しかしながら私はそこにはなんら進歩を見出せない、と言いたい。それに装飾は文化的にも洗練された近代人の生活の喜びを高める、といった言い分を私は否定する。また「とはいっても、その装飾が美しいものであれば、生活の喜びを高めるのではないか……」といった言葉に代表される言い分にも私は承服しない。私にとって、そして私を含めたすべての文化的に洗練された近代人にとって、装飾は生活の喜びなど高めはしない。私の目の前にいくつもの種類の胡椒入りケーキが出されて、その中から好きなものを選ぶとしたら、私はただひとつ、飾りのない単純な形のものを選ぶ。ハート形をしたものや乳吞み児を形どったもの、あるいは馬に乗った騎士の形をしていてその上にゴテゴテと飾りをつけたもの、こうしたものを私は選びはしない。こう言う私を、十五世紀の人間は到底、理解しかねるであろうが、近代人なら誰でも理解してくれるだろうと思う。また装飾の擁護者達は、私が単純さというものをこうまで好むのは禁欲行為と同じだ、と思っている。とんでもない話だ。尊敬するわが工芸学校の教授殿、私はだんじて禁欲的な思いから、そう言うのではない。そうしたケーキの方が私にとってずっと美味しいだけだ。だからそう言うのだ。皿に盛られて店頭に並べられた料理でずっと昔のものに、孔雀や雉や海老などを美味しく見せるために、ありとあらゆる飾りで飾り立てたものがあったが、これなど私にとってはまったく逆効果だ。また料理の展示会に首を出した時など、そこに展示されたいろいろな飾りものでいっぱいに詰めものがされた動物の死骸を食べることを考えると、なにか身の毛がよだつ思いがする。そんなものより私はローストビーフを食べる方が好きだ。

 装飾の新たな復権は美の発展にとって多くの弊害をもたらすだろうが、これもやがては克服されることだろう。というのは何人も、いわんや国家権力も人類の進歩をはばむことはできないからである。よしんばできてもせいぜい、そのテンポを遅らせるだけの話である。我々はその時が来るのをただ待っていさえすればよい。