ちくまプリマー新書

望まれたディスコミュニケーションの布置のなかで

石田光規『「人それぞれ」がさみしい』書評

相手との距離をとろうとする人間関係のありかたや、「人それぞれ」の社会に隠れた息苦しさ――『「人それぞれ」がさみしい』(石田光規著、ちくまプリマー新書)を、精神科医の熊代亨さんに読み解いていただきました。(初出:「ちくま」2022年2月号)

「みんなちがって、みんないい」「人それぞれ」──個人を尊重し、多様性を意識しあう令和の風潮のなかで、これらは肯定的な言葉とみなされるし、実際、これらの言葉どおりにひとりひとりの生き方は保障されている。その一方で私たちは孤独を抱え、コミュニケーションに疲弊し、社会的分断を深めていったのではないか。本書はそのように問題提起する。

 確かにそうなのだ。「人それぞれ」の時代において、私たちは仕事を、人間関係を、人生を自己選択するようになった。能力的に恵まれた個人なら、自己選択をとおしてまさしく自己実現を果たせるだろう。書店には、そうして自己実現を成し遂げた人々が綴った人生訓や自己啓発本が平積みされている。

 しかし多くの人にとって「人それぞれ」の社会は楽園とは言えない。たとえば複数の研究によれば、いまどきの若い人は友達といるより一人でいたほうが気楽で、にもかかわらず孤独感を感じやすく、友達と連絡を取っていないと不安になるのだという。友達関係も「人それぞれ」である以上、一度の喧嘩で関係が切れてしまうかもしれないし、そうした事態を避けるためにポジティブな感情を絶えず確認しあわなければならなくなる。 "雨降って地固まる" ような関係性の強化は難しかろうし、関係性が脆弱な割には気を遣いあって消耗しやすいだろう。

 また、人間関係が自己選択になったということは、誰もが選ばれるために努力しなければならなくなった、ということでもある。誰もが自己選択する社会では、選ばれるに値する何かを持っていなければ、結局望んだ人脈や仕事を獲得することができないのだ。

 無論、それ以前の地縁や血縁に根ざした社会にも、したくない仕事や付き合いたくない人間関係を我慢しなければならない人が大勢いたし、マイノリティが声をあげることすらできない状況があった。それを問題視した先人たちによって状況が改善されたのだが、まさにそうだからこそ、したくない仕事や付き合いたくない人間関係に直面していても、あるいは完全に孤立していてさえ、それは自己選択の結果であり自己責任であるとみなされてしまうようになった。こうした厳しい視点に傾きやすくなるのも、「人それぞれ」の社会の一面である。

 誰もが「人それぞれ」の選好を繰り返すことで、分断が拡大している弊害にも著者は目を向ける。「ハラスメント」や「政治的正しさ」、「迷惑」や「特権」に敏感な世相のなか、SNS上では、言いづらい言葉を求めて人々が結託しあい、対話の余地のない応酬によって互いの溝は深まるばかりである。脆弱になった友達関係がポジティブな感情の確認に終始するのと同様に、議論すべきテーマに対しても私たちは内輪での感情の確認に終始しあうばかりで、意見の相違を越えて近づけない──そんなディスコミュニケーションをここからも読み取ることができる。

 ところで私が思うに、ディスコミュニケーションをこそ私たちは望んできたのではなかっただろうか。関係性の焦眉の問題として著者はインターネットを挙げているが、インターネット、特にSNSのアーキテクチャは「人それぞれ」という棲み分けを望んだ人々の願いに沿って進化してきた、いわば私たちの願いの結晶だ。その結晶に対するニーズは、ワンルームマンションや携帯電話の普及と個人主義的な生活への憧れをとおして前世紀から着実に準備されていた。著者もまた、そうした積年の願いを踏まえながら本書の主題を見据えている。

 望まれたディスコミュニケーションの布置のなかで関係性を深める道筋はあるのか。著者は容易ではないと述べる。とはいえ容易ではなくなっている現状は顧みられるべきだろうし、それを所与として育った世代にも、それとわかるよう示されるべきではないかと私なら思う。たとえその「べき」という思いじたい、この布置のなかで「人それぞれ」という言葉で流されてしまうかもしれないとしても、である。