いま、L・M・モンゴメリの『赤毛のアン』を原作としたドラマ『アンという名の少女』(カナダCBC・ネットフリックス共同制作)が人気を呼んでいる。このドラマでは、本から抜け出てきたような、おしゃべりで空想癖のあるアンが、豊かな表現で周囲を巻き込んでいく様子に目が離せなくなる。ご存じのとおり、孤児だったアンはやがて教師になり、人生を切り拓いていく。
『赤毛のアン』だけでなく、私たちが親しんできた本や映画の中には女教師の姿があちこちにみられる。本書でも取り上げられる『ジェイン・エア』をはじめとして、『若草物語』のジョー、『サウンド・オブ・ミュージック』のマリア、『王様と私』のアンナ、『二十四の瞳』の大石先生、漫画であれば『ごくせん』のヤンクミなど、枚挙にいとまがない。これらの女教師は、少女たちに、女性が自分の能力や魅力を発揮する可能性を提示する。
過去の学校生活を振り返った際には、誰しも思い出す「女の先生」がいるだろう。女教師は、私たちにとって実に身近な存在である。身近であるがゆえにあまり気づかれていないのは、女教師がこれまでの歴史で常にジェンダー平等を目指す動きの前線に立っていたということではないだろうか。
教師は、近代において女性に早くから開かれていた職業のひとつだ。日本でも、産業化の進展とともに「男は仕事、女は家庭」という性別分業が確立される中で、教員は「女性の特質を活かすことができる職業」と認識され、女性教員は特に初等教育機関でその数を増やしていった。ただし、同じ教員でも賃金が男性より低いなどの性差別があったため、これらに対して女性教員たちは戦前から闘い、戦後まもなく悲願であった男女同一賃金を勝ち取ることになる。彼女たちは、産休・育休の制度化を目指した運動についても、精力的に取り組んできた。女教師は、世界各地で女性の地位向上のための運動を牽引する集団の一つだったと言っても過言ではないだろう。
本書は、大英帝国の女教師が宣教や植民地統治というミッションを帯びて世界各地に飛び立ってからの二世紀にまたがる旅を描く。著者堀内真由美氏もまた女教師であり、本書執筆に至るまでに、日本からイギリス、さらにドミニカ、ジャマイカを旅している。著者のドミニカやジャマイカへの旅によって、本書は、旧植民地出身の女教師がブラック・フェミニズムを担うリアルな姿にたどり着く。
これは単に女教師の歴史について書かれた本ではない。女教師というレンズを通してみた、帝国主義から新植民地主義への近代世界のダイナミックな変化と、その過程を貫くフェミニズムの歴史についての本なのである。
帝国主義を背景とした女教師たちの活動の両義性や矛盾・葛藤は、アジア各地に植民地を拡大していった戦前日本の女教師にも当てはまる。近年、大日本帝国の女教師たちの、植民地下台湾や朝鮮での「帝国」の使命を帯びた活動の内実に迫る研究がすすめられている(例えば新井淑子、山本禮子、金富子、朴宣美らの研究)。それらが描き出すのは、大英帝国の女教師たちと同じく、「帝国の妹たち」(本書73頁)のために誠意をもって教鞭をとった女教師たちの姿であり、「姉」のような女教師たちから影響を受けた植民地の若い世代の姿だ。
本書は、性差別・帝国主義・新植民地主義・階級社会などの問題群の交錯をとらえなおすとともに、歴史上の女教師や同時代に生きる女教師たちと、著者との間の心の交流を「打ち明ける」本でもある。時空を超えた壮大なパノラマを示しつつ、個別の女性にフォーカスするという、二つの視点の共存が、きっと読み手の関心を惹きつけるだろう。ぜひ本書によって歴史の中の「姉妹たち」に出会う経験をしていただきたい。