ちくま学芸文庫

新しい戦争
ジョージ・Ⅼ・モッセ『英霊 世界大戦の記憶の再構築』より

詩や軍歌、文学作品等を通じて「戦争体験の神話」が構築されていく様を描いた『英霊 世界大戦の記憶の再構築』。「戦争体験の神話」は当時の人々に、またのちの政治にどのような影響を及ぼしたか。本書の第一章全文を公開します。(訳・宮武実知子)

 

第1章 新しい戦争

 人はどのように近代戦争に対峙し、それがいかなる政治的帰結をもたらしたのか、が本書の主題である。大量死に遭遇したことは、おそらく最も根本的な戦争体験であろう。それが戦争に直面したことの本質をなすと同時に、本書の分析の中心でもある。近代戦争によって多くの人は、組織化された大量死というものに初めて真正面から出会った。二十世紀にくりかえし傷跡を残してきた戦争や国家承認された殺戮の結果として生じた、大規模な殺人を受け入れる態度を理解するため、大量死との遭遇の歴史はきわめて重要である。戦争に直面した結果はこれだけに留まらない。人々の生活に広く浸透して分断させ、ナショナリズム史に新たな段階をもたらした。
 第一次世界大戦が本書の焦点である。この戦争での大量死との遭遇が新たな次元を拓き、その政治的帰結が戦間期の政治に決定的な影響を及ぼしたからだ。第一次大戦における交戦中の死者および負傷による死者の数は、一七九〇年から一九一四年までの全ての戦争による死者の二倍以上にのぼる。数字を挙げれば、あの戦争の記憶を支配する大量死が空前の規模であったと明らかになるだろう。第一次大戦では、およそ一三〇〇万人が死亡した。一方、それまでで最悪の犠牲を払った作戦行動はナポレオンの対ロシア戦だったが、死者は四〇万人である。――一九一六年のソンムの膠着戦では、全軍の死者は六〇万人を下らないというのに。十九世紀最大の戦争だった普仏戦争(一八七〇―七一年)では、フランス軍一五万人が死に、プロイセン軍四万四七八〇人が戦死した。第一次大戦に至って、ナポレオン戦争での尽大な損失という記憶は色褪せ、十九世紀の戦争における消耗は、後のものとは比べようもなくなった。戦死の新たな次元により、戦死を覆い隠して超越する努力が、かつてなかったほど切実に必要とされた。
 第一次大戦には、ほかにも重要な特徴がある。人々の戦争認識に影響を及ぼしたのである。この戦争は技術時代の戦争、すなわち、新しくて強力なコミュニケーション手段をもつ時代の戦争であった。この新しい手段が戦争イメージを拡散させ、人々の想像力を刺激した。しかしながら、何より重要なことは、新たな交戦形態が西部戦線に導入され、大勢の兵士の生命に対して戦争が持つ意味に影響を及ぼしたことである。塹壕戦は、経験者たちの戦争イメージばかりでなく、後の世代が戦争を理解する仕方まで決定した。多くの人々が戦中戦後に経験した、大量死との遭遇が本書の枠組みとなる。特殊な交戦形態をした西部戦線は、戦争を描いた散文や詩、写真集や映画をも席巻した。つまり、同世代と後続世代の戦争理解を決めたのである。
 一九一四年八月の勃発から十一月までは、十九世紀の戦争観のまま、移動しつつ短期間で戦われるかに思えた。しかし、十一月半ばに戦線は膠着、双方が陣を保持するため塹壕を掘ると、移動はキロ単位からメートル単位に縮んだ。程なく、北海からベルギー、フランドル、フランスを経由してスイスに至る約七六四キロに及ぶ塹壕が形成された。それは徹底したシステムであった。いくつもの塹壕が前後して並び、攻撃と防衛と補給を分担した。連絡壕がこれらの塹壕をつなぎ、風景は複雑な網の目で縦横に切り刻まれた。無人地帯(ノーマンズランド)で隔てられた敵の塹壕までの距離は一〇〇〜四〇〇メートル。時には、五メートルの短さから最大で約一キロの長さまであった。歩哨や兵站(たいていは夜間に行われた任務)に当たっていない兵士たちは、通常は二列目に配置される地下壕で過ごした。多くの塹壕が掘られた多孔質の土壌と、頻繁な雨と霧のせいで、塹壕網全体がしばしば濘泥(ぬかるみ)に沈んだ。激しい砲撃が人間だけでなく万物を破壊したため、周囲の風景は地球というより月を思わせた。その荒廃は、塹壕で生きることを余儀なくされた兵士たちの脳裏を離れなかった。
「塹壕という小さな世界」とある復員兵が名付けたように、後方との連絡がしばしば困難かつ危険であったため、そこは独立した世界であった。兵士は、塹壕の持ち場を守り、小さな単位で戦った。ドイツ軍では一二人の兵士と一人の伍長で一つの分隊を構成したが、他の国々も同じ規模で構成した。これらの分隊は、塹壕を巡察する将校に指揮された一〇〇人弱の小隊に属した。分隊の構成員はだいたい数週間連続で中隊に投入されて、延々と歩哨任務に耐え、敵の塹壕から狙撃されたり、時には突撃を命じられたりした。塹壕生活は暗黙の休戦期間が長く続くが、どちらかが膠着状態を打開しようとすると、ソンムやヴェルダンやパッシェンデールのような大規模で劇的な戦闘が勃発した。とはいえ、塹壕内で生と死はいつも隣り合わせていた。それが戦争という日常の現実であった。
 死は常に傍らに存在した。戦闘中でも、無人地帯(ノーマンズランド)や塹壕内でも、眼前にあった。兵士たちは、埋葬されていない死体を銃の台架や塹壕内の道しるべに使った。死んだ兵士のブーツが自分のよりも良い状態なら、脱がせたりもした。と同時に、どこにいても大量の死に向き合っていながら、塹壕生活の別の側面が兵士たちに強い印象を残した。生活を共にし、生き残るために互いを頼りにし合う、分隊の兵士たちの仲間意識である。この体験は、戦争が終わった時には肯定的に捉えられた。戦争が始まる前から、蔓延する孤独感に対する解毒剤として、現代にも意義ある共同体のごときものが必要だと考える者は多かったからである。むろん、壊滅の只中にあって、仲間意識だけでは現に直面している死への恐怖と悲しみを完全には克服しきれなかった。前線でも銃後でも、誰もが掛け替えのない誰かを失っていた。
 死者を哀しみ悼む想いは広く共有されていたが、にもかかわらず、それほどまでには第一次大戦の記憶を支配することにならなかった。むしろ、誇りという感情が哀悼に混じりがちであった。崇高な大義のために戦い、犠牲を払ったという感情である。誰もが皆そうした慰藉を求めたわけではないが、それでも、戦争体験に高次の意味を見出そうと躍起になり、犠牲と喪失を正当化する根拠を得たいという願いが広まっていた。この願いは、特に復員兵の間に強く見られた。彼らは、戦争の恐怖の記憶と栄光との板挟みになって苦しむことが多かった。国民国家の防衛という神聖な任務を全うしたことになって初めて、彼らの人生が新しい意味を得るはずであった。前線で戦って帰還した兵士の日記や手紙を詳細に研究したのは、ビル・ガメイジだけである。その結論によれば、戦争の日々をできるだけ早く忘れたいと願う復員兵がいる一方で、安心感や目的や親しい交流を憶えている者もいる。あの悲惨な歳月を人生最良の日々と見る者すら存在した。ガメイジの研究は復員兵のごく一部を扱ったにすぎないし、ヨーロッパではなくオーストラリアを対象としていた。にもかかわらず、こうした態度はほとんどの国の兵士に共通していた。彼らは自分の戦争体験を表現し、それを自分だけに仕舞っておいたり家族や友人に見せるばかりでなく、広く公開したのであった。
 男たちは大義のために身命を賭したのだ、という戦争観には強いインパクトがあった。国家が真正の記憶として採用したのは、戦争を否定する復員兵ではなく、戦争にポジティブな要素を見出す復員兵の記憶であった。要するに、戦争とは国民の栄光と国益のために遂行されたのである。戦争中から、とりわけ戦争が終わると、国家の最高権力者たちが戦死者の埋葬と戦争記念事業を請け負った。慰藉は個人的レベルでも公的レベルでも作用したが、記憶されたのは、戦争の恐怖ではなく栄光であり、悲劇ではなく意義であった。国民のイメージと不変の魅力に関わる要素が作用して神話が創作され、戦死から痛みを取り除いて、戦闘と犠牲の意義を強調した。戦死者のための儀式や、戦争から生まれた文学作品も支援となった。本来は忌まわしいはずの過去を受け容れやすくすることが意図されたが、単に慰めとなるためではなく、何より国民国家の正当化こそが重要であった。戦争は国民国家の名において遂行されたからである。
 戦争体験の現実は、「戦争体験の神話」とでも呼べるようなものに変換されるようになった。戦争は有意義で神聖でさえある出来事として回顧される。こうした戦争理解は、一国の専売特許ではないものの、切実な必要に迫られていた敗戦国で特に発展した。戦争体験の神話は戦争を擬装して、その体験を正当化するよう設計された。つまり、戦争の現実に取って代わろうとしたのである。戦争の記憶は聖なる経験へと改変された。国民国家には宗教的感情という新たな深みが与えられ、そこらの聖人や殉教者、聖地・伝統などが手っ取り早い見本に使われた。キリストの腕に抱かれた戦没兵士の絵【図1】は、第一次大戦中からよく知られていたが、この絵は、殉教と復活という伝統的な信仰を、包括的な市民宗教としての国民国家に投影する。英霊祭祀は戦後、ナショナリズムという宗教の主役となった。それは戦争に敗れ、戦時から平時への過渡期にひどい無秩序に陥ったドイツのような国々において、最も強い政治的衝撃をもたらしたのである。
 神話に取り囲まれるようになり、戦争体験は神聖化された。と同時に、まるで異なる方法で戦争は吸収された。日用品に使われ、大衆演劇や戦場観光事業(ツーリズム)になることで、陳腐化されたのである【図2】。ここでは戦争体験は思いのままに加工された。復員兵はこうした戦争の陳腐化を嘆いた。戦中戦後を通じて、陳腐化を楽しみがちだったのは、銃後に留まった者や従軍するには若すぎた者である。とはいえ、戦争の陳腐化は戦争体験と比べて、ナショナリズムという市民宗教に対して、さしたる政治的影響力を及ぼさなかった。

 

 戦争体験の神話は、全くの虚構でもなかった。何といっても、神話は戦争の現実を目撃した人々、この現実の記憶を変形させつつ永久保存しようとする人々の心に訴えたのである。彼らはたいてい、戦争が勃発した時に熱狂して志願した者たちであった。確かに、年をとりすぎて戦争に行けなかった層も戦争の栄光を称えようとし、そうすることで実体験の効用を認めまいとしたが、国民的規範となるに相応しかったのは、義勇兵による戦争描写であった。とはいえ、自分たちの感情を表現した義勇兵は、ごく少数派にすぎない。だが大多数の義勇兵が沈黙し続けたので、彼らの詩や散文だけが注意を引いた。ドイツの作家エルンスト・ユンガーのような男たちは、自分たちの戦争の思い出に忠実なだけだったが、彼らの著作は、戦いを正当化する愛国的な規範となった。戦争体験の神話は、義勇兵の戦争観から形成され、後世に伝えられた。それゆえ、彼ら義勇兵の態度を分析することが不可欠となるだろう。つまり、戦争体験の神話の創作について記述することは、戦争における義勇兵の歴史を記述することでもある。
「一九一四年世代」の義勇兵が表明した神話――彼らは何をしたのか、どんな影響があったか――を全て解明することは、我々の手に余るに違いない。ここではただ、神話を具体化するシンボルの発達に関心を寄せることにする。死者のための軍用墓地、戦争モニュメント、記念式典などである。
 にもかかわらず、本書は塹壕戦世代からではなく、さらに一世紀遡った時代から始める。戦争体験を神話化することで現実を耐え得るものに変えようとする葛藤が初めて生じたのは、第一次世界大戦ではない。フランス革命戦争(一七九二―九九年)やナポレオンに対するドイツの解放戦争(一八一三―一四年)に、戦争体験の神話の起源がある。それ以前の、戦う大義など与り知らぬ傭兵軍による戦争には存在しなかった要求を、神話が充たしたのである。フランス革命戦争は、市民軍が戦った初めての戦争であった。市民軍は当初、大義と国民に身を捧げる大量の義勇兵で構成された。これらの戦争で死んだのは、知り合いかもしれない誰かの戦友や息子や兄弟であった。だからこそ、彼らの犠牲が正当と認められる必要があった。義勇兵はこれらの戦争で初めて、神話創作者の役割を果たした。実際、フランスやドイツで軍旗の下へ馳せ参じたのは、新しいタイプの兵士である。職業上の理由や金銭的事情を除けば、傭兵軍に志願した者はほとんどいなかった。初めての近代戦争において、「戦争体験の神話」が誕生したのである。
  第一次大戦の神話創作者は、すでに存在した神話を利用し、近代戦争の新しい次元に対応できるよう拡大した。戦争体験の神話を構成する部品の一つ一つは、一九一四年にはすでに取り揃えられ、広く議論の対象となっていた。戦死者はどのように顕彰され埋葬されるべきか。戦争モニュメントはいかなる象徴的意味を投影されるべきか。そして、戦死と犠牲の正当性を擁護するために自然とキリスト教とをいかに利用すべきか。神話を喧伝する義勇兵の役割は確立され、フランス革命から一九一四年世代まで変わることはなかった。
 戦争体験の神話の影響力と魅力は国によって異なる。第一次大戦中よりも戦後になってから差が開いた。左右した要因は、戦勝国か敗戦国かの区別、戦時から平時への移行形態、そして国民主義的な右翼の勢力などであった。ドイツがこの神話に最も適していたことが証明されたのは、神話が戦後政治の主潮となったからである。ドイツの敗戦、戦時から平時にかけてのトラウマ的な経過、そして社会構造のひずみ。そういった全てが、市民的信仰としてのナショナリズムと、それに伴う戦争体験の神話を強化した。この国では、神話の効果が最も容易に見て取れる。とはいえ、神話はいずれの国でも重要な役割を果たしていた。本書の分析はドイツを中心としつつ、イタリア・フランス・イギリスからも例を引くことにする。
 戦争体験の神話は、戦間期を理解するために不可欠である。だが、第二次世界大戦後にも有効であり続けたのだろうか?  後で見るように、第二次大戦もまた、神話の展開において決定的な段階を画した。それゆえ、神話の起源を振り返らねばならないように、第一次大戦を超えた時代にまで進まねばならない。第一次大戦ほど大規模かつ全面的な現実ではなかったものの、フランス革命という近代的な交戦形態の黎明期から、人は大量死に向き合っていた。そうした死との対峙は歴史の過程の一部であったということが、第一次大戦中の神話の利用を適切な全体像の中に位置づけるために理解されなければならない。さらに、戦争体験の神話を歴史的な連続性に組み込むと、重要な二つの問いが生じる。戦争体験と戦死に直面して克服することから、近代戦争の飼い慣らしとでも呼べる事態が招来され、政治的・社会的な生活の自然な一面として近代戦争が受容されたのではなかったか。そして、戦争体験の神話は必然的に、個々人の生命に対する残忍さと無関心を進行させ、遥かに巨大な暴力となって我々の時代に定着することになったのではなかったか。
 戦争体験の神話の出発点は、第一次大戦のずっと前に遡る。神話の核心を理解するため、その基盤を掘り下げねばならない。後に多くの人々の記憶や政治に影響を及ぼすことになるからである。戦争における義勇兵は、近代戦争が向かわざるを得なかった道を示す上で、決定的に重要であった。彼らの役割と、その役割を可能にした条件が、まず最初に検討されねばならない。

 


戦争体験の神話化
大量死の現実はいかにして克服されたか。
フランス革命から第二次世界大戦後まで。