ちくま新書

東南アジアで東西世界をつないだ人びと

5月刊、弘末雅士『海の東南アジア史』の「はじめに」を公開いたします。歴史を通じて東西世界をつないできた東南アジア海域。そこにおいて、現地と来訪者の間をつないだ存在がいました。それはいったいどんな人びとだったのか? 

†東西世界をつなぐ東南アジア

 アジアの歴史を考える際、前近代と近現代を統合的にとらえるのは、案外難しい。近代になると、交通通信手段の発展とともに、世界経済の影響が各地域に強く及ぶ。また新たに導入された学校制度や官僚制度は、従来の社会秩序を変容させた。このためわれわれは、ともすれば前近代と近代を峻別しがちになる。またその変化の要因として、外からの影響を重視してしまう。

 こうした前近代と近代、内と外をそれぞれ連関させて、理解できないものだろうか。外来者と接触しながら、前近代から近代への移行期を生きた現地の人々もいたはずである。東西海洋交易路の要衝に位置した東南アジアには、他地域との交流を進展させる一環として、前近代から20世紀前半まで、外来者が滞在中に現地人女性と生活を共にする慣行が存在した。それは元来、社会が認める婚姻の一形態であった。彼女らとその子孫は、外部世界と現地社会を結びつけつつ、時代に対応する興味深い題材を提供してくれる。

 東南アジアは、熱帯気候のもたらす豊かな産物を有し、インド洋とシナ海さらに太平洋をつなぐ。この地域には、古くから他地域の商人や旅行者、宗教家らが来航した。東南アジアの港町(以下港市〔こうし〕と表現)は、外来者に広く門戸を開き、多様な人々を受け入れるシステムを構築してきた。たとえば通訳の手配や居住地の割り当て、市場への商品搬入の仲介などがそれである。また19世紀の終わりまで、来訪者の多くは男性単身者であった。地域の有力者は、外来者の活動の便宜をはかるため、彼らに現地人女性との一時結婚を推奨した。こうして外来者の多くが、東南アジアで家族形成し、東南アジアの港市は、多様な出身地の人々やその子孫を抱えるコスモポリスとなった(Reid 1993:62-131、弘末2004:24-35)。のちに植民地支配を展開するヨーロッパ人も、こうしたシステムに支えられて東南アジアに参入した。

 他方、他地域からの来訪者は、東南アジアに未知の病気や武器を持ち込み、混乱を引き起こすこともある。また現地の支配者の側にも、権力基盤を保持するため、外来者に立ち入らせたくない領域があった。多様な人々が到来したこの地域は、外来者を受け入れつつ、確執が生じにくいように社会形成する必要があった。

 本書は、外来者と接触した存在(現地人女性、ユーラシアン、現地生まれの華人)をとおして、東南アジア海域世界の社会統合がいかに進展したかを検討する。ユーラシアンとは、アジア人とヨーロッパ人との間の子孫のことである。現地人女性とヨーロッパ人男性の間に生まれたユーラシアンは、ヨーロッパ本国と東南アジアをつなぐ上で欠かせぬ存在となり、また現地生まれの華人は、中国さらには外来者と現地社会を経済的に橋渡しする役割を担った。彼らは、現地勢力と協働しつつ、都市間にネットワークを形成した。こうした存在に支えられてヨーロッパ勢力は、東南アジアで植民地支配を進展させた。

†近現代東南アジアを形成した人々

 一方、19世紀後半から、交通・通信手段の発達によって、世界経済の動向が、東南アジアにも強く影響し始めた。植民地宗主国は、支配領域を拡大し、東南アジアを鉱産物や農産物の輸出用第一次産品の生産地として、また商品市場として開発した。同時に植民地宗主国の意向が植民地に強く及びだし、現地権力者の影響力は後退を余儀なくされた。またヨーロッパから多数の人々が来航し始めると、白人の優越を主張する人種主義の影響が植民地に及び、現地の妻やユーラシアンは社会で周縁化し始めた(ストーラー2010)。

 こうした動向に、ユーラシアンや華人系住民さらに現地人有識者は、敏感に反応した。植民地勢力と比較的長く交流してきたフィリピンや東インド(インドネシア)のユーラシアン(フィリピンでは「スペイン系メスティーソ」と呼ばれる)の間では、本国出身者に対抗する活動が生じ、彼らの間で「フィリピン人」や「東インド人」の意識が形成され始める。

 本書の後半の第四章・第五章は、ユーラシアンがいかなる人間観をもとにこうした意識を形成し、現地住民といかに連携したかを検討する。こうした内と外の紐帯役の動向は、その後の民族主義運動の展開に少なからぬ影響を及ぼしたように思われる。

 本書は、東南アジアで交易活動が活性化し、東西世界から多数の来訪者がこの地域を訪れた近世の15〜19世紀前半、さらに植民地社会が成立し国民国家形成運動が展開する近現代(19世紀後半〜)を対象とする。ヨーロッパ人コミュニティが形成され、華人の数が増加するのも、近世からである。東南アジアにおいて女性は、そのような外来者と家族形成するとともに、商業活動において重要な役割を担った。また来訪者のなかには、女奴隷との同居を選ぶ者もいた。ともすればわれわれは奴隷の存在を軽視しがちであるが、奴隷は東南アジアにおいて、19世紀中葉まで社会統合に欠かせぬ存在であった。

 奴隷はその後、植民地体制下で、また独立を保ったタイでも20世紀初めに、廃絶された。また国民国家の成立とともに、現地人女性の外来者との一時結婚の慣習も負の遺産とされた。さらに外来系住民は、出身地か現地かと国籍の選択を迫られた。なお、こうした現地人女性やその子孫の外来系住民は今日、社会の表舞台から後退している。そのため、彼らをとおして前近代から近現代に至る変化を通時的に把握する試みは、あまりなされていない。しかし彼らは、前近代社会を支えつつ、近代を導いた存在であった。

 国家間の垣根が高くなり、同じ国民のなかでも異なるエスニシティや宗教間の確執が表面化している今日、こうした異なる集団の間を仲介した存在に光をあてることは、国民国家形成の背景やその後の動向を理解する上で重要となる。本書は、これらの仲介者をめぐる資料が比較的多く存在する、インドネシアを中心に取り上げる。

 また東南アジアは、日本とも少なからぬ交流を重ねてきた。近世には各地に日本町が形成され、多量の産品を買い付ける朱印船の来航は、東南アジア社会に少なからぬ影響を与えた(岩生1974:213-269、永積洋子2001)。また第二次世界大戦中に日本は、重要資源の獲得をもくろんでこの地域を軍事占領した。日本の占領統治は、現地住民の広範な協力を必要とし、社会の末端にまで変化を及ぼした。その後の東南アジアの国民統合を考える上でも、日本占領期を理解することは重要になる。本書でも、近世の日本人の活動と日本占領期を扱う。

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