ホックシールドは「充実したファミリーフレンドリー制度がなぜ利用されないのか」という問いに取り組んだ。この先に、次のような問いを追加してもよいだろう。すなわち、「そんなに職場が楽しいのなら、いっそのこと家庭を捨てて職場だけで生きていけばよいのでは?」という問いである。本書でいう「ゼロ・ドラッグ」人材になり、精神的に充実した人生を職場で実現する、という生き方である。
あるいはいっそのこと、みんながそれぞれの帰るべき家庭を持つのをやめて、会社こそが生きる上でのコミュニティになるようにしたらどうか。このアイディアは、ロバート・オーウェンやシャルル・フーリエなどの空想的社会主義者がかつて描いたような、職場と家庭が一体となったコミュニティに近い。集団組織の力を発揮し、「社会工学」を駆使して問題解決にあたることができるのならば、職場に「はりぼての家庭」を構築することなどせず、いっそのこと組織(職場)に家庭を包摂させてしまえばよいのでは、という考え方である。
ただ、この構想は、少なくとも資本主義社会では実現の見込みが薄い。私企業が提供するコミュニティは、企業の経営状態に左右される。いくら「家族のような」職場の人間関係があっても、会社がそれを支援する仕組みを縮小したり、あるいは整理解雇に走ったりすれば、人間関係もうまく行かなくなり、場合によってはそこで関係が終わる。解雇された人には何も残らない。本書16章で述べられているように、アメルコもやがて「競争するアメルコ」に方針転換し、ファミリーフレンドリー制度は縮小され、自慢だった職場の居心地のよさも消えていった。
もちろん、同じようなことは家族にもある程度あてはまる。世帯が経済的に余裕があるうちは、楽しく、将来を見据えながら家族が一緒に生きていける。しかし所得が失われる、重すぎるケア負担がのしかかるなどの理由で、家族関係が終わることもありうる。ただ、その場合でも、多くの人は何らかのかたちで家族を持ちたいと思うだろう。理由のひとつは、やはり家族のほうが企業よりも、人生を包括的に保障すると人々が考えているからだ。
家族と企業では、たしかに後者に有利な点も多いが、家族は企業よりは永続性や包括性を「期待できる」点では優位である。企業と被雇用者の関係は、結婚の誓いのように「健やかなるときも病めるときも」「死が分かつまで」続くことはない。家族関係でも、もちろん失業して家族が離れていく、といったことはありうるが、企業のようにいやおうもなく関係が上から左右されてしまうことはない。家族は、仕事を辞めても続く、あるいは続くことが期待される人生の基盤である。
以上から、家庭が職場に包摂されることは考えにくい。いくらアメルコが魅力的な職場を提供し、人々がそこで情緒的な満足を得ながらストレスフリーでやりがいをもって働いていたとしても、アメルコはグローバル環境で利益を追求する組織である以上、人々の人生を丸抱えすることは決してない。「そんなに職場の居心地がいいのなら家庭なんてなくてもいいのでは」という考え方は、なかなか成り立たない。職場の居心地がいくらよくても、そして反対に家庭がいくらストレスフルでも、家庭が職場よりも永続的な関係基盤である以上、人は家族を持とうとするし、一日の終りには楽しい職場からそれほど楽しくもない家に帰ってもくる。
職場は、私たちが生きていく上で必須のお金を人質に取る。家庭は、やはり私たちにとって重要な永続的人間関係を人質に取る。結局私たちは、家庭と職場という2つの領域の両方ともにコミットして生きていくしかない。ホックシールドが話を聞いてきた人々が直面する葛藤は、このように根源的な構造に起因するもので、おいそれとは解決しない。