筑摩選書

鬼と闘うサムライの物語に心惹かれる
人と人との関係性が弱まっている時代に

大ヒット作『鬼滅の刃』が包含する普遍の問いを社会学の視点から総ざらいした筑摩選書『鬼滅の社会学』。話題の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も考察の材料として取り上げています。鎌倉殿の時代から連なりキメツまで続いている精神とは? プロローグの一部を公開します。

 武士の世の始まりが今から約八百年前。1221年の承久の乱は一つのメルクマールだ。
 2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は明らかにこのことを意識してつくられている。三谷幸喜の脚本は、歴史学者の時代考証を踏まえつつも新解釈も取り入れ、コミカルなシーンも多々盛られていて視聴者を楽しませてくれる。
 武士の世の意義とは何だろうか。政治に関心を向けるなら、京都の朝廷から独立した東国政権確立を示すものとしての頼朝の征夷大将軍任命とか、承久の乱後の北条時房と泰時の六波羅探題就任などの歴史的出来事が着目されようが、社会意識論的な関心からすると、御恩と奉公の関係を基本とする武家の論理が社会全体に浸透して一つの道徳的な秩序体系が出来上がった点に注目する捉え方が気になる。
 すなわち、武力をもったサムライの価値観やそれに基づく生き方が支配的な社会への移行があり、後にいわゆる武士道と呼ばれる一連の諸道徳の体系が確立された。そこでは肉親をはじめ深い恩義のある人に報いる行為としての仇討ちが美徳とされ、その達成は賞賛されていた。
 ところで、承久の乱から八百年後の今、鬼と闘うサムライの物語に多くの人が心惹かれている。その物語とは、吾峠呼世晴による漫画作品『鬼滅の刃』であり、サムライとは「悪鬼滅殺」を任務とする鬼殺隊の隊士たちだ。

 2021年12月、うっちゃんこと内村光良が主演のNHKの夜のお笑い番組「LIFE!」では、竈門炭治郎と煉獄杏寿郎とがパロディ化されて二回にわたって取り上げられていた。
 ちなみに煉獄が登場するほうは、営業時間終了間近のスーパーのお惣菜コーナーが舞台で猗窩座という煉獄のライバルである強い鬼も出演している。主婦などお客たちが二人を取り巻いている。そこに置かれた商品に店員が値引きのシールを貼ろうとするのだが、猗窩座は貼らせまいとし、煉獄は店員を守ろうとして攻防となる。お客たちは当然ながら煉獄を応援する。
 炭治郎や煉獄や猗窩座が登場して活躍する劇場版『鬼滅の刃・無限列車編』(以下では劇場版『無限列車編』)をすでに多くの人が視聴した、と判断しないとこうしたパロディはつくられない。映画も原作もそれ程にヒットした。多くの人が視聴し、読了し、短縮形の「鬼滅」だけで意味が通ずる。『鬼滅の刃』は、もはや一つの社会現象となっていると言える。
 本書を手にしたあなたは、たぶん『鬼滅の刃』をある程度以上知っている人なのだろうと思う。多様な読者を想定して本書は書かれる。前半では、登場する鬼たち、鬼と闘う鬼殺隊のメンバーたちの紹介もしていくので、原作と劇場版、アニメ版を未読、未視聴の人でも物語の概要をある程度はつかめるだろう。したがってネタバレも含まれることは最初に断っておきたい。後半では、『鬼滅の刃』のファンでもたぶんあまり気づいていないと思われる視点から論じる。

 では、それはどんな視点なのか。ズバリ言うと、この物語は、人々の深層意識に働きかけ、人々が潜在的に希求する、義侠心を掘り起こしているのではないかと筆者は見ている。
 義侠心と聞くと、日本史に詳しい方は、楠木正成の息子正行が傷ついた敵側の兵に示した温情のエピソードを思い起こすかもしれない。
 南北朝時代、湊川の戦い(1336年)で足利軍と闘った正成は落命した。届けられた父の首を前に11歳の正行は自決しようとするも、母に「父はあなたに後を託したのではないか」と引き止められて思いとどまる。正行は文武に励み十数年後に捲土重来を果たす。負けた敵兵は、厳冬の渡辺川に落ちて凍死寸前だった。これを見て正行は敵兵をも救助し、傷の手当や身体を温めるなど手厚く介護した。その恩義を感じて後の四条畷の戦い(1348年)で正行軍に参加した者もいた。どこまでが史実か不明のこんな話が今も伝承されている。
 戦前までこの逸話は有名だった。学校で習い、教科書にも載っていた。どこまで史実であったかということよりも、それが長く伝えられてきたということが社会学的には大事なのではないかと思われる。本書で筆者は、社会学の視点から『鬼滅の刃』という作品を考察するが、視野は広くとり、柔軟に考えていきたい。
 義侠心の基本は、相手を思う優しさであり、敗者へのある種の負い目の感情と言えるだろう。「武士の情け」が近しいかもしれない。だが、それは武士という特定の階級のみならず、ある時期までに庶民にも広く浸透していた感覚だった。この感覚は〈侠の精神〉の現れと言える。そして〈侠の精神〉は今も人々の間で密かに希求されていると考えられる。
 なぜ、義侠心と『鬼滅の刃』とが結びつくのか。筆者は大筋でこう考えている。1945年の敗戦から今年2022年で既に七七年が経つ。いわゆる戦後民主主義による「平和で豊かな」世の中が長く続いて人々がすっかり忘れているけれど、潜在意識ではなお必要性を感じていて、今の時代に改めて見直されるべき大切な価値がある。そういう潜在意識を『鬼滅の刃』の読書体験、視聴体験は刺激し掘り起こし、読者、視聴者が共感している。その価値こそは義侠心であり、より包括的なものとしては〈侠の精神〉なのだと。
 アプローチとしては、例えば、明治期に新渡戸稲造(1862~1933年)によって海外に向けて書かれた『武士道』(Bushido, The Soul of Japan)の内容やそれを讃える元台湾総統の李登輝(1923~2020年)らの主張を取り上げる。戦前に学んだ日本の武士道教育を李は生涯重視した。新渡戸らは「武士たらざるものの武士道」の模索に苦労していたが、『鬼滅の刃』においてそれは見事に表現されているのではないだろうか。該当する場面については、随時具体的に例示していきたい。
 

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