ちくま学芸文庫

20世紀芸術への思索
『映像のポエジア――刻印された時間』訳者解題

7月刊のちくま学芸文庫『映像のポエジア――刻印された時間』(アンドレイ・タルコフスキー著)が好評です。訳者の鴻英良氏が、映画と演劇の違いに着目しながら、タルコフスキーが俳優の歴史において行ったことの画期性を綴ってくださいました。どうぞご一読くださいませ。(『ちくま』8月号より転載)

 1986年3月末、パリで監督立会いの下での『サクリファイス』試写会が開かれてから約一月後の4月26日、チェルノブイリ原発で巨大な爆発事故があった。スウェーデンのゴトランド島で撮影された核戦争による人類の滅亡を扱った場面のある『サクリファイス』はやがてしばらくすると予言的であったというような言われ方をすることになった。映画が現実を動かす、そのように考えていたタルコフスキーの映画をこのように語ることはタルコフスキー映画の愛好家にとっては一つの誘惑のようなものでもあった。それからしばらくたって、タルコフスキーが癌でもう長くないというニュースが流れてきた。
「ハムレット……一日中ベッドの中だ。身を起こすこともできない。下腹部と背中が痛む。神経も。足を動かすことができない。シュヴァルツェンベルクはこの痛みがどこからくるのか分からないでいる。……ハムレット……? 腕と背中の痛みがなければ、……、しかし今は、何もする力も残っていない――それが問題だ。」(遺稿、1986年12月15日の日記)
 この言葉を最後に書き残し、12月28日の夜、タルコフスキーは死去する。だが、それまでの約25年間、ソ連当局と多くの交渉を続けながらそれほど多くはない数の映画を撮り続けてきたタルコフスキーは、映画と映画の製作の間の長い作業休止期間に、映画とは何かについての思いを巡らし、それについての文献を読み漁ったり、映画を見まくったりしながら、映画についての深い考察を続けてきた。それらの断片は、ソヴィエトの映画雑誌などにその都度発表されてきたが、その記録の集大成とも言うべきものが、『ノスタルジア』の撮影の頃からタルコフスキー本人によって目論まれ、死の直前に翻訳刊行されはじめた。
 この書物を構成するにあたって、タルコフスキーは、20世紀の終わりが近づいていることを強く意識していた。そして、映画が20世紀とともに誕生した芸術であることとそのこととが関係づけられていた。「映画は20世紀と同い年である。」なんと魅力的な言葉だろう。
 さらに、ホメロスらの叙事詩をもとにソフォクレスらによって構築されていった演劇の三千年近い歴史と比べたとき、あまりにも若い、この未熟な芸術、映画の演劇との違いをきわだたせながら、映画の本質に迫ろうとするとき、あらゆる作為から逃れた現実の真実性という芸術的イメージがフィルムに刻み込まれるリズムとしてどのように浮上してくるのか、そのようなことを具体的な撮影現場の姿の記述とともにわれわれに指し示そうとするときのタルコフスキーの筆致はさえわたっている。
 たとえば『鏡』で、そばの畑の前で遠くを見やりながら戦地に赴いた夫の帰りを待つ妻の不安な気持ちを映し出していく場面を撮影しながら、その後の展開を女優のマルガリータ・テーレホワに絶対に教えようとしなかったのはなぜなのか。演劇ならば役者はすべての成り行きを知った後で舞台に上がり、その場面での自身の姿を現実化していく。その瞬間的な現在は、全体との全面的な関係構造の中に置かれるだろう。だが、事実の全面性は、映画において、まったく別のかたちでイメージの中に刻印される。その先への不安は、未知との遭遇として現実化している。そのような現実が映画俳優にもたらされるものだとするならば、それは舞台俳優の三千年の歴史を覆すものだ。ショットに刻み込まれるリズムは舞台のリズムとは違う。だから、エイゼンシュテインがはじめ演劇の理論として提出した「アトラクションのモンタージュ」という概念は、タルコフスキーによって全面的に否定されるのだろうか。モンタージュは恣意的なものではなく、ショットの中を流れる時間によって規定される。そのように展開されていく映像のポエジアは、20世紀の特質とどうかかわるのか。本書は、タルコフスキーの映画とともに、そうした思索へとわれわれを誘うのである。

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