三現実史観
人類は今、その精神史上、稀有なる乱世を生きている。
もとは自らが生みだしたはずの人工知能(AI)に、高度な機能を与えたあげく、脅威さえおぼえるに立ち至った。自らの脳や遺伝子もふくめ、あらゆるものを分析し操作しようと欲した果てに、生命の本質を見失いかけてもいる。地球上では資源の開発と利用を人間本位にすすめた結果、気候変動に手痛い逆襲をうけている。さりとて未知の土地(テラ・インコグニタ)は物理的に残っておらず、代替としての仮想空間をほぼ無限に拡張する一方、宇宙への脱出を図ってもいる。
足もとを振りかえれば、明治維新と二度の大戦にくわえ、戦後の高度経済成長、そして平成における構造改革をへて、日本人というアイデンティティも大きく揺らいでいる。
こんな世の中で、心を正常に保つことの方がむずかしい。病んで引きこもるか、不安をかくして作り笑いをするか、開きなおって狂おしい欲望に身をまかせるか。
人間の精神が、実存の根底が、はげしく動揺している。
鋭敏な人々は、その徴候を早くから嗅ぎつけ、するどく反応していた。たとえば知里幸恵は1922年、旭川を離れて上京し、都会生活に慣れぬさまを次のように書き送っている。
道を通る東京の人たちは何れだけ私たちと変ってゐるか、と見ると、先づやはりおんなじ人間でちっとも変りないと思ひます。たゞ私の様にノラクラしたものはめったになくて、みんなキビ〳〵と動作が機敏で目がキョロ〳〵と忙しさうな所が都会人の特長らしう御座います。余裕がないから、都会人は神経過敏なんですって。(知里1996、75頁)
アイヌ家庭で育ち、無文字の世界を背景にもつ幸恵には、大都市のテンポは異様に感じられた。しかし彼女もまた、民族に伝えられた神謡をアイヌ語と日本語で、文字により後世へ残すという難業にとりくみ、その過程で身体をこわし、完成を見ずに世を去った。
1903年、ちょうど知里幸恵と同年、山口県に生まれた金子みすゞも、そうした極度に感受性の高い一人であった。若くして命を絶ったのち半世紀をへて再発見されたその詩「はつ秋」には、田舎と町がこう対比されている。
涼しい夕風ふいて来た。
田舎にゐればいまごろは、
海の夕やけ、遠くみて、
黒牛ひいてかへるころ、
水色お空をなきながら、
千羽がらすもかへるころ。
畠の茄子は刈られたか、
稲のお花も咲くころか。
さびしい、さびしい、この町よ、
家と、ほこりと、空ばかり。(金子 1984、54頁)
あの当時から、日本社会はいかに激変してしまったことか。
とはいえ本書は、ノスタルジーのお伽噺ではない。さりとて、すぐに効く処方箋を与えるマニュアルでもない。
人類の精神があゆんできた道のりをたどり、そこを貫く原理や、いくつかある転換点、およびそれらの本質をとらえる。それにより、未来へむかうための座標を得るのが目的だ。
何よりも本書は、日本語読者のために書かれた。日本語で思考し、ことばを交わしあう精神へむけて、届けたい。そういう思いから、内側から発せられた、ささやかな声である。
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本書を名づけて『人類精神史』という。長い旅路になるが目的地は、現代の日本だ。日本人とは何者か。その問いに答えを見つけるための道行きである。よって心がせく読者には、まず第9章から読んでほしい。そして、悠久の時空の中に自分が存在していることの不思議を、感じてほしいと願っている。
三つのリアリティ
現実というものは、複数存在する。私をとりまくリアリティの中には、いくつか質の異なる位相のものがある。そう意識しはじめたのは、いつからだったろう。
ひとつのきっかけになったのは疑いなく、故・外山滋比古の『思考の整理学』(初出1983年)だった。
この本は何げない記述にも深遠な智慧が盛られていて、まさに名著と呼ぶにふさわしい。その中に、こんな一節があった。われわれがじかに接している外界、物理的世界を第一次的現実と呼ぶならば、知的活動によって、頭のなかにつくり上げた現実世界は第二次的現実と言える。そして従来の第二次的現実は、ほとんど文字と読書によって組み立てられていたが、20世紀も後半になってブラウン管、つまりテレビによる第二次的現実が大量にあらわれた。「現代人はおそらく人類の歴史はじまって以来はじめて、第二次的現実中心に生きるようになっている。これは精神史上ひとつの革命であると言ってよかろう」(外山1986、192・193頁)と、いま思えば重要な提言をしていたのだった。
〔編集部より〕
以降、この第一次(的)現実を本書ではR1、第二次(的)現実をR2、後ほど出てくる第三次(的)現実をR3と呼ぶ。残念ながらこの定義を著者は原稿に残していないが、本書において理解が必要なものであるため、著者による企画書のR1~R3についての説明を引用する。
「人類の精神史をおおきく、三つの理念型にそって区分してみるなら、
・R1(第一次現実):生身のヒトが自らをとりまく自然環境に依存し、自他が直接に対峙してきた無文字の時代
・R2(第二次現実):人間が造りだした人工環境の占める度合が非常に大きくなり、文字を介してのコミュニケーションが増加した時代
・R3(第三次現実):ヒトの脳の究極の外部化としての仮想環境が増大し、情報の伝達における速度と量が加速度的に増しつつある時代」
R1とR2を分けるもの
R1とR2を分ける分水嶺は、第8章でとりあげる〈軸の時代〉とその前後に現れた、主要な思想や宗教の創唱者たちを後世と分かつものでもある。
ゾロアスター、ユダヤ教の預言者たち、ソクラテス、ブッダ、そして時代はくだるがムハンマドらを、声の文化に属する人々と見ることができる。彼らは声の文化と文字の文化が接するところに生きながらも、あくまで前者に立脚して己の思想を人々に説いた。彼らの言葉が今も我々の胸を打つのは、おそらくそれゆえにこそ、なのである。
『パプーシャの黒い瞳』(2013年)というポーランド映画がある。移動生活をおくるロマ(ジプシー)の女性パプーシャをめぐる実話にもとづいている。基本的に無文字の社会であるロマ出身だが、彼女は少女のころから好奇心が強く、読み書きを独学する。後、ロマ社会に入り込んで習俗調査に従事した詩人のフィツォフスキと知り合い、刺激を受けて自ら詩作を始めたパプーシャは、やがてロマ初の詩人として注目されるようになる。が、フィツォフスキが著書『ポーランドのジプシー』を出版したことで状勢は一変。彼女も協力者としてロマの秘密を暴露したと、仲間たちから非難を浴びる。苦悩の末にパプーシャはこうつぶやいた、「読み書きなんか習うんじゃなかった」。
ここには、文字というものの持つ圧倒的なパワー、魔術的とも言えるその威力が、無文字社会の人々をいかに怯えさせるかが描かれている。とともに、識字能力を手に入れてしまった個人の近代的覚醒もまた、正負の両面をもつことが示されていると言ってよいのである。
こうした文字のデモーニッシュ(悪魔的)な魅力と危険性を、人は早くから認識してきた。流通させたくない書物を時の権力者が焼きはらうという「焚書」行為はその一例である。
R2とR3を分けるもの
R2とR3を分ける特徴の一つは、後者では情報源の変化こそが常態だということである。つまり、ものすごいスピードで激変する社会においては、情報も絶えずバージョンアップせざるを得ない。でないと、すぐ時代遅れになってしまうからだ。そうした場合、紙媒体の印刷物という、旧来型のR2メディアでは追いつかない。むしろR3のバーチャル空間上で、日夜更新しつづけた方が都合がよい、ということにもなる。印刷された百科事典が売れなくなり、権威あるブリタニカさえ発売をやめた一方、ウィキペディアの充実ぶりは目を見張らせるものがある。
R1からR2に移行すると、聴覚にかわって視覚の重要性が圧倒的になる。嗅覚や触覚もまだ、生きている。印刷された本を手にした時、インクや紙のにおいをかぐのが私は好きだし、頁をめくる感覚も大好きである。しかしR3では、この二つのうち嗅覚も、ほぼ消える。そうは言っても、スマホやタブレットといったインターフェイス端末に触れ、キーボードを打つ程度の触覚など、たかが知れている。音声認識で呼びかけるようになれば、それすらもあやうい。こうして我々は世界との一体感を、どんどん失ってきたのである。
3Rと3G
三つの現実は、三つの神に対応する(編集部注:R1の神はGott〔宗教的な神〕、R2の神はGeld〔お金〕、R3の神はGoogle〔情報〕)。このアイディアは、『エステティーク』誌の「神」特集(2017年9月刊)に寄稿した中で提出したが、原稿を執筆した2015年9月時点で、すでに私の中に芽生えていた考えである。
R3の神=Google
世界的ベストセラーとなったハラリ『サピエンス全史』のテーマの一つは、間主観的(intersubjective)現実というものだった(邦訳では「共同主観的」となっている)。本来、主観的認識の枠内でしか世界を把握することのできない、孤独な人間どうしが、共同作業を容易にするために作りだしたのが間主観的現実としての法律、貨幣、宗教、国家といったさまざまな制度である(Harari 2015: 132, 邦訳152頁)。そういう指摘がもはや今さらと思われるほど、現代の我々は宗教という制度を外側から見る視点をもってしまった。宗教という世界観を絶対のものとしていた時代からは、遠く離れてしまったのである。
今のネット社会、R3では、人間の脳が物理的空間を必要とせず、無制限に外部化され拡大している。こうした別のリアリティを制御するには、別の形のカミが必要だ。その役割を一応いまのところ果たしているように見えるのが、グーグル(Google)という第三のカミとも言える。
この仮想現実には、エコロジーが叫ばれる現代と相性がいい、という面があることは見逃せない。つまり仮想空間は現実的な物理的空間を必要としない。情報は端末を通して必要な時に取りだせばよい。紙媒体の書物や文書のように、重い目をして持ち歩く必要もなければ、保存場所に苦労することもない。そもそも紙を作るための原料やエネルギー、印刷にかかるコストなどを大きく削減することも可能になる。これほど地球環境にやさしい情報制御・流通のあり方はこれまでなかった。
おまけに、デジタル化された文書は検索が容易だし、これから翻訳機能が進化してゆけば異言語間の壁も相当に低くなるだろう。これらもまた、情報過多でかつグローバル化した世界にとっては、きわめて大きな魅力といえる。
他方でR3の情報(デジタル・データ)は、フィジカルでタンジブルなモノとして残らない。R1での情報は物理的・可触的なモニュメントとして、あるいはその記憶として残された。またR2での諸記録は、手紙や文書としてアーカイブされた。しかしR3はこれらと根本的に違う。したがって未来の歴史家は、史料をどう扱い保管してゆくのか、いま議論されているところだ。
グーグルを神にたとえるのは、別に私の独創ではない。スコット・ギャロウェイ著『the four GAFA』では、アップル、フェイスブック、アマゾンとならぶ巨大IT企業の筆頭にグーグルをあげ、「全知全能で無慈悲な神」と呼んでいる。
「進化」より「棲み分け」
本書の枠組みとなる三つの現実世界というのは、あくまでも理念型にすぎない。おおきく見れば、R1→R2→R3という順序で人類社会をとりまく主たる環境は進化してきたとも言えるが、別の見方をすれば、これらは棲み分けながら併存する面ももっている。
このように「進化」よりむしろ「棲み分け」を重視したい、というのが私の立場である。主客が対峙するロゴス的世界よりも全体を包含するレンマ的世界を志向する、と言えるかもしれない。
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本書の執筆は、新型コロナウイルスの世界的感染拡大と時を同じくして行われた。これまでの日常や常識が大きく揺らぎ、「ニューノーマル」「新しい生活様式」が叫ばれる。これまでのようなR1における、生身の人間同士の接触は避けるべきとされ、R3の領域が拡大してゆく。
そこでは失われるものも多い。思いがけなく知人と出会い、何気ない会話をかわすことの、なんと大切なことか。いとおしい日常。それが消え、アポイントをとった相手との、しかもマスク越しの会話がふえた。目はある程度表情を示してくれるが、口もとは分からない。笑っているのか、ふくれているのか。
本章では、3R・3G仮説を提唱した。次章では、そのうちR1の世界観を支配していた宗教とは何なのか、という話から始めよう。