このクギ打ちの例のように、身体で覚えるには、身体をつくらなければならない。泳げるようになるためには、泳ぐという動作にふさわしい身体をつくる必要がある。手足にしかるべき筋肉をつけることはもちろんだが、それだけではなく、関節の柔軟性や引き締まった体形も重要だ。泳ぐ練習をするということは、そのような身体をつくるということでもある。もちろん、そうはいっても、身体と脳のあいだの適切な信号のやりとりを習得することも、やはり不可欠である。いくら身体ができても、信号のやりとりがうまくできなければ、泳ぐことはできない。しかし、逆に、信号のやりとりがうまくできても、泳ぐのにふさわしい身体をつくらなければ、泳ぐことはできないのである。
下手な練習は、しないほうがよいと言う。どうしてであろうか。下手な練習をすると、身体に悪い癖がつく。上手な練習をして、良い動きを繰り返せば、良い身体ができあがる。だが、下手な練習をして、悪い動きを繰り返すと、その動きに合った良くない身体ができあがる。もちろん、そのときには、身体と脳のあいだの信号のやりとりも良くないものとなる。つまり、下手な練習をすると、脳と身体に悪い癖がつくのだ。
テニスやゴルフなどを習うときは、我流ではなく、ちゃんとしたコーチについたほうがよい。自分ひとりで練習していると、身体に悪い癖がついてしまう恐れがある。どれほど一所懸命練習しても、いやむしろ一所懸命やればやるほど、悪い癖がつく可能性が高まる。
いったん悪い癖がついてしまうと、そこから脱するのは並大抵のことではない。なにしろ身体が変形してしまったのだから、それを元に戻さなければならない(ただし、その変形は目に見えるものでないことも多い)。この変形を元に戻すためには、少なくとも身体が変形するのに要したのと同じだけの時間と労力が必要となろう。悪い癖がついてしまってから良いコーチについても、それはゼロからの出発ではなく、マイナスからのスタートとなる。悪い癖のついた身体を元に戻すことから始めなければならないからである。
身体で覚えるのは、身体そのものを作らなければならないから、非常にたいへんだ。いわゆる座学は、先生の話を聞いて頭で覚えるだけだから、身体を使う必要はほとんどない。しかし、実習や演習になると、身体で覚えることが中心になる。慎重に正しい手順で身体の訓練を行うことが、実習や演習では何よりも重要となるのである。
知覚/感覚を磨く
身体で覚えるものはたくさんあるが、知覚や感覚もそのひとつである。知覚や感覚はひょっとすると、私たちに生まれつき備わった能力だと思われているかもしれない。たとえば、オギャーと泣いて生まれた瞬間から、眼をあければ、人の顔や部屋の天井が見えるし、いろいろな足音や話し声が聞こえるように思われるかもしれない。それらがいったい何なのか、どんな意味をもつのかはわからないとしても、顔は顔に見えるし、足音は足音に聞こえる。知覚される世界、感覚される世界は、赤ん坊でも大人とたいして変わらない。こう思われるかもしれない。しかし、じっさいはそんなことはないのだ。
知覚や感覚もまた、私たちが世界から刺激を受け、それに応じて身体を動かすという経験を積んでいくなかで、次第に習得されるものである。そのような世界との交わりの経験がなければ、世界はただの混沌として立ち現れるだけで、顔、天井、足音、話し声などに明確に区別されて立ち現れることはない。それぞれの事物が互いに明確に区別されることを「分節化」と言うが、身体による世界との交わりがなければ、世界は分節化されて立ち現れてこないのである。
モリヌークス問題という興味深い問題がある。これは、生まれつき眼の見えない人が開眼手術を受けて眼が見えるようになったとき、その人は立方体と球を眼で見ただけで、どちらがどちらであるかを正しく言い当てることができるだろうか、というものである。この人はもちろん、触覚によって「立方体」と「球」という言葉を習得したので、手で触れれば、どちらが立方体で、どちらが球かを正しく述べることができる。しかし、手で触れずに、眼で見るだけで、どちらがどちらなのかを正しく言い当てることができるだろうか。
パッと聞くと変な問いに感じられるかもしれないが、この問題は人の知覚の成り立ちを考えるうえで、とても重要な視点を与えてくれる。なぜなら、この問題の背後には、ひとつの重大な前提があるからだ。それは、開眼手術を受けた人がはじめて眼を開いて立方体と球を見たとき、立方体はすでに立方体に見え、球はすでに球に見えるという前提である。
この前提のもとでは、モリヌークス問題への答えは「ノー」であるように思われる。なぜなら、立方体が立方体に見え、球が球に見えても、その立方体と球の視覚的な現れ(見え姿)はそれらの触覚的な現れ(手触り)とは明らかに異なるので、どちらが立方体で、どちらが球かを、触覚によって正しく述べることができても、視覚によって正しく述べることはできないように思われるからである。
しかし、じっさいは、その前提が成り立たない。開眼手術を受けた人が眼を開いても、すぐには何も見えないのである。眼のまえに広がるのはまったくの混沌である。ふつうの人でも強烈な光を浴びると、まぶしくて、ほとんど何も見えなくなる。それと似て、開眼手術を受けた人の場合も、最初は光の渦が眼前に広がるだけである。そこから時がたつと、やがて立方体が立方体に見え、球が球に見えるようになる。しかし、そのためには、立方体や球から光の刺激を受け、それに応じて身体(頭や眼球など)を動かすという経験を積まなければならない。そのような経験のなかには、身体の動きを触覚的に感受することも含まれている。つまり、立方体と球の視覚経験のなかには、触覚経験が入りこんでいるのである。
そのため、立方体が立方体に見え、球が球に見えるようになったときには、立方体と球の視覚的な現れから、どちらが立方体で、どちらが球かを言い当てることができるかもしれない。なぜなら、それらの視覚経験に入りこんだ触覚経験が、立方体と球の触覚的な現れと何らかのつながりがあるかもしれないからである。このようなつながりがあれば、立方体と球の視覚的な現れをそれらの触覚的な現れと関係づけることができるかもしれず、そうなると、視覚的な現れから、どちらが立方体で、どちらが球かを言い当てることができるようになるだろう。
モリヌークス問題は、すぐ決着がつきそうにみえて、なかなか決着がつかない。それは、開眼手術を受けても、すぐには事物が見えないからである。事物が見えるようになるには、刺激に応じて身体を動かすという経験(触覚経験を含む経験)の積み重ねが必要である。ここでは、モリヌークス問題への答えがどうなるかにはこだわらないで、この点を指摘するにとどめたい。
この点はまた、上下逆さメガネを掛け続けたときに起こる感覚の変容からもよく示される。上下逆さメガネを掛けると、すべてのものが文字どおり上下逆さに見える。天井は下に見え、床は上に見える。このように視覚が大きく変化するので、すぐにはそれまでのように自由に動くことができない。それでもそのメガネをかけたまま、ともかく身体をいろいろ動かすという経験を積んでいくと、一週間ほどで、もとのように自由に動けるようになる。そしてそのときには、何と上下逆さまではなく、すべてが正立して見えるようになる。自由に動けることと正立して見えることは同時に成立するのである。
こうした視覚の変化が生じる途中の過程で、じつに興味深い現象が起こる。逆さから正立への変化は一瞬で切り替わるわけではない。そのあいだに、あるものは逆さに、あるものは正立して見えたり、さらに物事がもっと解体して混沌に近い状態に見えたりする段階がある。そのような恐ろしい無秩序の段階を経て、ようやくすべてが正立して見える秩序だった段階が訪れるのである。しかし、そうなっても、安心するのはまだ早い。逆さメガネを外すと、またすべてが逆さに見える。メガネを着けないもとの生活に戻るには、もう一度、あの恐ろしい無秩序の段階をくぐりぬけなくてはならないのだ。
感覚- 運動スキルの習得
エナクティヴィズムという考え方がある。それは、事物が事物として知覚できるようになるためには、身体を動かして事物からうまく刺激を探り出すことが必要だという考え方である。机が机に見え、雨音が雨音に聞こえるという分節化された知覚が成立するためには、それらの事物から受ける刺激に応じて身体(とくに眼や耳などの感覚器官)を適切に動かして、それらの事物から新たな刺激を探り出し、その新たな刺激に応じてまた身体を適切に動かすということを繰り返していく必要がある。
このような「刺激の探り出し」を適切に行う能力は「感覚―運動スキル」とよばれる。私たちは事物との交わりを通じてこの感覚- 運動スキルを習得する。そしてこのスキルを用いて事物から刺激を適切に探り出すことによって、分節化された知覚を得るのである。何が描かれているのかがよくわからない図をしばらくあれこれ眺めていると、パッとあるもの(たとえば、髭をはやした男)が見えてくることがある。そしていったんそれが見えるようになると、つぎはすぐそれを見ることができる。しばらく眺めているあいだに、それを見るための感覚- 運動スキルを習得したのである。
ソムリエや指揮者は常人には想像もできないような繊細な味覚や音感をもっている。ソムリエはワインの味を、そのワインの産地や何年ものかなど、驚くべき詳細さと正確さで識別できる。交響曲の指揮者も、膨大な数の音の響き合いのなかから、それぞれの音を正確に聞き分けることができる。この人たちのほかにも、たとえば、天文学者は夜空に超新星を見ることができるし、医師はレントゲン写真に病巣を見ることができる。このような驚嘆すべき知覚能力も、長年の経験によって培われた感覚- 運動スキルによって可能になるのである。
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