ちくまプリマー新書

ネット検索vs丸暗記
『「覚える」と「わかる」知の仕組みとその可能性』から一部公開

歴史や生物のテストを丸暗記で乗り切った人は多いのではないでしょうか。しかし今や誰しも簡単にネット検索できる時代です。覚えなくても問題ない!はずですが、そうとも言い切れません。理解するとはどういうことなのか、知の可能性を探る『「覚える」と「わかる」』より本文の一部を公開します!

覚える――丸暗記

漢文素読

 中学や高校の勉強では、ずいぶん暗記をさせられた。歴史の年代や英単語、化学の元素記号など、暗記しなければならないものは、山ほどあった。正直言って、暗記は好きではなかった。数学の問題を解くほうが、よほど楽しかった。暗記は、さして意味もわからずに、ただ繰り返し覚えるだけだから、そう楽しいものであるはずがない。どうしてこんなにもたくさん暗記しなければならないのか。そう思うことがたびたびあった。

 意味もわからずに、ただ暗記しても、しようがないだろうと思われがちだが、じっさいは、結構、暗記は役に立つ。中学のときの世界史で、中国の歴史を習うとき、まず、最初に歴代王朝の名称を丸暗記させられた。殷、周、秦、漢、随、唐、……。それぞれの王朝がいつごろなのか、どんな時代だったのか、いっさい知らずに、ただただ覚えた。そんなことをして何になるのだろうと思ったが、王朝の名称と時代順が頭に入っていると、そのあと学んだ具体的な事象を整理し、一望するのにすごく役に立った。中国の壮大な歴史の全貌を頭のなかで一挙に思い浮かべてみるのは、なかなか爽快なものである。何十年もまえのことなので、もうはっきりとは王朝名を思い出せないが、あのときの爽快感だけは、いまも明瞭に残っている。

 日本人初のノーベル賞(物理学賞)の受賞者の湯川秀樹も、幼いころから漢文の素読を祖父にやらされたそうである。漢文の素読とは、意味がわからないまま、ただ漢文を声に出して読むことである。たとえば、「北の冥に魚あり。其の名を鯤と為う。鯤の大いさ、その幾千里なるを知らず。化して鳥と為るとき、其の名を鵬と為う。……」(『荘子』)と声に出して読む。意味もわからずに、ただただ読む。それは湯川少年にとってなかなかつらいことであったようだが、その後、大人の書物を読み始めるときに、おおいに役に立ったそうだ。漢字への慣れにより、文字への抵抗がまったくなかったのである。

 このことに関連して、「単純提示効果」という面白い現象がある。同じものに何度も接していると、それを好ましく感じるようになるという現象だ。意味のわからないもの、たとえば無意味な綴り(kmwjtxのようなもの)でさえ、とにかく何度も接していると、好感度が増してくる。人間は馴染じみのないものには不安を抱き、慣れ親しんだものには安心感を抱く傾向がある。広告を繰り返すのも、この人間の心理を利用している。

 お坊さんになる人はよく経典の暗誦を行う。「……色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是……」(『般若心経』)。漢文を書き下すこともなく、じかに音読みする。もちろん、意味はわからない。それでも、ひたすら繰り返し読み、おのずと暗誦していく。このような一見、無意味にみえることが、あとで経典の内容を学ぶうえで、すこぶる役に立つ。全文が頭に入っていることで、各部分の理解が容易になるのだ。

 これと似たようなことは、私の専門の哲学でも起こる。哲学を勉強しはじめたころ、哲学の本は難解なので、なかなか最初から順に理解していくことができなかった。理解しがたい箇所にぶつかると、とりあえずそれを読み飛ばしてつぎへ進んでいくしかない。そうすると、そのつぎの部分の理解が十分でなくなる。それでも、仕方ないから不十分な理解のまま、さらにさきへ読み進めていく。すると、またしても理解しがたい箇所にぶつかる。このようなことを繰り返していると、そのうちほとんど意味がわからなくなり、もう読み進めることができなくなる。こうして途中で挫折する。しかし、挫折したままでは、哲学書全体の理解は叶わぬ夢になってしまう。

 大事なことは、理解しようなどと思わずに、とにかく全文を読みきることだ。なまじ理解しようと思うから、理解できなくなると、挫折する。最初から理解を求めなければ、最後まで読みきることができる。意味がわからなくても、文字面だけでも結構楽しいものがある。それを頼りにとにかく読む。そして繰り返し読む。もちろん、そうしたところで、わからない箇所が多すぎるから、「読書百遍意自ずから通ず」というわけにはいかない。それでも暗記するくらい繰り返し読んでおけば、そのあと必死の理解を試みることで、何とか理解できるようになってくる。理解できないまま全文を読みきることが理解に至る必須の条件なのである。

 それにたいして、数学はひとつずつ順に理解していける。いやむしろ、そうやって理解を積み上げていかないと、全体が理解できない。このような場合には、意味もわからずに全体を暗記する必要はない。しかし、哲学のように、順に理解していくことができないものもある。各部分がわかって全体がわかるのではなく、全体がわかってはじめて各部分がわかる。このような場合は、意味もわからずに全体を暗記するくらい、何度も全体に接する必要がある。それが理解に向けての出発点なのだ。意味を気にせず、とにかく声を出して読む。文字を絵画のように楽しみ、音を音楽のように楽しむ。これが理解へと至る要諦なのである。

ネット検索

 しかし、いまの時代、そう頑張って暗記しなくても、ネットで検索すれば、必要な情報はすぐ手に入る。中国の歴代王朝も、漢文や経典のテキストも、哲学の古典も、検索すれば、直ちに閲覧できる。わざわざ図書館に行く必要はないし、本屋を探し回る必要もない。情報がすぐ手に入るのであれば、それはいわば暗記しているのと同じではないか。理解を伴わない暗記は、情報をただ脳のなかに貯めこんでいるだけだ。脳のなかでなくても、すぐ取り出せるなら、ネットやパソコンのなかでもよいのではないか。こういった意見もよく耳にする。

 たしかに、いまのネット全盛の時代になって、暗記の価値は下がった。このことは認めざるをえないだろう。文字が発明されて、情報が文書として記録できるようになると、暗記の価値は大きく下がったが、ネットですぐ検索できるようになると、暗記の価値はさらに下がったと言わざるをえない。しかし、それでも、暗記にはまだまだ重要な価値が残されている。ネット検索ですぐ情報が手に入るといっても、暗記した情報を思い出すのに比べれば、かなり時間がかかる。瞬時に思い出せる心地よさに比べて、ネット検索はまどろっこしい。余計な広告が表示されるから、なおさらだ。

 しかも、ネット検索では、理解に至る助けにならない。情報がネットやパソコンにあるだけでは、たとえそれがすぐ引き出せるとしても、情報はただそのまま蓄えられているだけで、何の変容も生じない。しかし、暗記していれば、理解していなくても、情報は無意識のうちにいわば「整理」されていく。具体的にどのようなことが起こっているかはまだよくわからないが、暗記した情報のあいだに何らかのつながりが生まれてくる。たとえば、同じ言葉が異なる情報に含まれていれば、それによってその異なる情報のあいだにつながりができくる。このように情報が「整理」されると、それがのちの理解の助けになるのである。

 かりに脳を直接、ネットに接続できるようになれば、キーボードを操作したりするとなく、瞬時に検索できるようになろう。中国の歴代王朝は何だったかと思っただけで、歴代王朝が頭に浮かぶ。それは暗記した歴代王朝を思い出すのと何ら変わらない。脳科学と人工知能研究では、キーボードを介さずに脳とコンピュータを直接つなぐ研究がじっさいに進められている。これをBMI(ブレイン・マシン・インターフェース)とよぶ。この研究が進展すれば、いずれ暗記したことを思い出すのと同じような仕方で、コンピュータのメモリに蓄えられた情報をすぐ取り出せるようになるだろう。

 しかし、そうなっても、コンピュータのなかの情報はただ蓄えられているだけで、暗記した情報のように、時とともに「整理」されはしない。「整理」されるためには、情報を蓄えたチップを脳内に埋めこまなければならないだろう。そうすれば、チップ内の情報どうしや、チップ内の情報と脳内の情報とのあいだに何らかのつながりが生まれてくるだろう。そうなれば、チップ内の情報は「整理」され、暗記した情報と同じように、理解に至る助けとなろう。

 ただし、脳内に情報チップを埋めこむことには、倫理的な懸念がある。膨大な情報をいわば暗記できるからといって、健常者に情報チップを埋めこんでもよいのだろうか。それは脳(それゆえ心)に取り返しのつかない損傷を与えることになるかもしれない。深刻な記憶障害のある患者にたいしてなら、ひとつの治療法として情報チップを埋めこむことも許されるかもしれないが、健常者にそのような危険なことを行うのはいかがなものであろうか。

 このような倫理的懸念はあるものの、情報チップの研究は進められており、いずれ倫理的な懸念も克服されて、脳に情報チップを埋めこむ時代がやってくるかもしれない。そうなれば、ようやく私たちは暗記の苦役から解放されることになろう。『ドラえもん』に「アンキパン」が出てくるが、これはノートや本のページに食パンを押しつけて、その内容を写しとり、それを食べると、書かれた内容を暗記できるという便利な小道具だ。この小道具のように、情報チップを脳に埋めこめば、その情報を覚えられるという夢のような時代がやってくるかもしれない。もっとも、暗記が趣味の人にとっては、暗記の価値がほとんどなくなっていささか寂しい時代になるかもしれないが。

 このような夢の時代がやってくるのは、まだもっと先のことである。技術の進歩が著しい昨今にあっては、何百年も先のことではないかもしれないが、少なくとも数十年は先であろう。それまでは、やはり暗記をせざるをえない。電卓が普及するまえは、筆算やそろばんで計算をせざるをえなかったが、それと同じように、情報チップの埋めこみが可能になるまでは、暗記は不可欠であろう。暗記の苦役は続くが、暗記の喜びを見つけることも可能だ。円周率の小数展開を何万ケタまで覚えている人がいるが、膨大な数の並びを一挙に脳裏に思い浮かべることができるのは、さぞ爽快なことであろう。嬉々として暗記できるようになれば、それは人生の潤いのひとつとなる。

覚える――身体でも知る

身体知

 頭で覚えるというより、身体で覚える知識がある。大工は巧みに金槌でクギを打つが、金槌の打ち方を頭で知っているわけではない。金槌でクギを打とうとすれば、おのずと手が動き、うまく金槌がクギに当たる。頭ではなく「手が知っている」のだ。

 もちろん、手が知っているといっても、脳が何の役割も果たしていないというわけではない。脳の働きがなければ、当然、手は動かないし、金槌も動かない。しかし、手の動かし方にかんして、脳から手に一方的に指令が送られ、手はただその指令に従って動くだけというわけではない。脳と手のあいだには、双方向的な信号のやりとりがある。手はみずからその筋肉のあり方に従って動き、その動きが神経信号として脳に伝えられる。脳はその信号にもとづいて手の動きをどう調整するかを決め、その調整信号を手に送る。手はそれにもとづいて動きを調整し、その新たな動きをふたたび脳に伝える。このような双方向的なやりとりを繰り返すことによって、金槌でクギを打つときの手の巧みな動きが可能になる。

 手はみずからその筋肉のあり方に従って動こうとする。けっして脳の指令どおりにただ動くのではない。これが肝心な点だ。金槌でクギの打ち方を覚えるとき、手にはクギを打つのにふさわしいような筋肉がついてくる。そのような筋肉があってはじめて、うまく打てようになる。もちろん、手と脳のあいだの適切な信号のやりとりも不可欠であり、クギの打ち方を覚えるときに、そのやりとりも習得される。しかし、それだけではなく、クギを打つのにふさわしい筋肉もついてくるのだ。この筋肉のあり方が金槌でクギを打つという知識の不可欠な要素である。手が知っているというのは、手がしかるべき筋肉のあり方をしているということだ。「知る」ということは、頭だけで行われるのではなく、身体でも行われるのである。