ちくま新書

ウクライナ戦争が問う我々の人間性
——『ウクライナ戦争』自著解題

ちくま新書『ウクライナ戦争』の著者・小泉悠氏が、戦争について、人間について、悪について、子供たちについて、その本質を率直に語った貴重なエッセイ。PR誌「ちくま」1月号より緊急転載いたします。

  戦争という現象にはいろいろな顔がある。直接の戦争経験を持たず、軍事オタクとして生きてきた筆者が戦争と聞いてまず思い浮かべてきたのは、「戦闘」だった。巨大な軍隊同士が火力や機動力を発揮して敵の殲滅を目指す暴力闘争。これは間違いなく戦争の一つの顔ではある。
 しかし、12年前に子供を持ってから、戦争の別の側面を意識するようになった。子供という、この弱くて壊れやすいものを抱えながら生きていくということは、平時の社会においてもなかなかに緊張を強いられるものがある。すぐに熱を出す、とんでもないことで怪我をする、迷子になる。そういう子供との暮らしに、爆弾が降ってくるのが戦争である。あるいは、子供に食べさせるものがない、電気が来ない寒くて暗い夜を過ごさせなければならないという状況を強いられるのが戦争である。一人の親として、それはどんなにか辛くて胸の張り裂けるような生活だろうかと思う。
 今回、ロシアがウクライナへの侵略を開始したことで生み出されたのは、無数のそうした情景だった。かれこれ15年ほど職業的にロシアという国をウォッチしてきた身としては、ロシアの言い分が全く理解できないわけではないとしても、ウクライナの人々から平穏な生活を奪ってよい理由にはならない。本書の根底には、ロシアという国が引き起こした事態への暗い怒りのようなものがやはり横たわっている。
 ただ、以上はあくまでも筆者の個人的な感情であって、それは日記帳にでも書きつけておけばよいだろう(日記はかつて一度も続いたことがないが)。商業的な活動として、ということは、筆者の書くものに商品価値ありと出版社が認めて本にしてくれ、読者が対価を払ってくれる本の形で文章を世に出すからには、何らかの社会的意義が存在しなければならない。
 そうした次第で、本書は、筆者の専門である軍事の側面から第二次ロシア・ウクライナ戦争の様相を描き出すことを目指した。プーチン大統領は何を目論んでこれほどの戦争を引き起こしたのか。戦場ではどのような闘争が繰り広げられているのか。その結果、この戦争はどのような性質を持つに至ったのか――これが本書の主題である。
 詳しくは本書を一読願いたいが、結論から言えば、第二次ロシア・ウクライナ戦争は極めて古典的な性質を有している。つまり、大規模な野戦軍同士の戦闘が決定的な意味を持つ戦いである、ということだ。
 2000年に大学に入学した筆者は、このような意味での戦争がもはや過去のものになった、という感覚を強く持ってきた。毎年秋にロシア軍が実施する軍管区大演習では、戦車戦、航空撃滅戦、敵前渡河、さらには核使用に至るまでを想定した訓練が繰り広げられるが、「こんなことを本当にやるものだろうか」という思いが頭のどこかには存在してきた。だが、戦争は起きるのだ。折り合いがたい利害を抱えた二つ以上の主体が存在し、暴力闘争の装置としての軍隊が存在する限り、戦争が起きにくくなることはあっても、我々の目の前からなくなることはない。この忌まわしい現象を鎖でがんじがらめにして棺桶の中に入れ、深い穴の中に埋めたとしても、存在しなくなるわけではないのだ。
 ただし、それが絶望的なことだとは思わない。戦争も、犯罪も、交通事故も、どれも人間が引き起こす悪であり、この世界からなくなることはないだろう。だが、それは我々の人間社会が生きるに値しないものであることを意味しない。むしろ、そうした悪を孕んだ存在であることから目を背けず、どうにか押さえつけながら生きていく有様を、「人間性」と呼ぶのではないだろうか。
 したがって、この戦争を本当に非人間的な悪行のままに終わらせるのかどうかは、我々自身の選択にかかっている。ロシアの侵略に抵抗するウクライナを見捨てないこと、同じような事態を繰り返させないこと、戦禍に苦しむ人々に支援の手を差し伸べること。その全てにおいて我々の人間性が試されよう。そして願わくば、ロシアの地に生きる人々までは憎まないこと、ロシアという国をもう一度国際秩序の中に引き戻すことを望みたい。それが容易でないことは知りながら、筆者の中の人間性はそのように訴えている。    

(こいずみ・ゆう ロシア安全保障)

 

 

ちくま新書
ウクライナ戦争
小泉 悠著
定価946円(10%税込)

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