白熱する運動会
皆さんに、小学生の頃を思い出してもらうことから始めましょう。
日本の多くの小学校では、5月や10月など、比較的気候がいい時期に運動会が開催されます。たいていは赤と白に分かれて、徒競走や綱引き、リレーなどが行われます。そして最後に、赤組か白組が優勝します。私は小学校を卒業してもう随分と時間が経ちましたが、まだぼんやりと、運動会のときのいろいろな記憶が頭に残っています。中でもふとした時に思い出すのは、運動会が終わった後に、赤組の子と白組の子が取っ組み合いのケンカをしていた場面です。勝った色の子が、負けた色の子に「弱かったなぁ」といった言葉を投げかけ、それに立腹して大ゲンカ……という流れです。似たような経験をしたことはないでしょうか。ケンカにはならずとも、一触即発……といった状況に遭遇した人はいるかもしれません。
でも、大人になって改めて考えてみるとすごく不思議です。何が不思議かというと、赤組、白組は、自分たちで選んだわけではなく、先生から「このクラスのみなさんは、今年は白組です」とか、「出席番号が偶数の場合は赤、奇数は白組です」などと言われて決まることがほとんどです。つまり、どちらの色を選ぶかという選択肢は子どもたちにはありません。たまたま、偶然決まった色のチームに所属しただけなのに、なぜ、勝ったらうれしく、負けたら取っ組み合いのケンカをするほど悔しいのでしょうか。
サマーキャンプでの争い――泥棒洞窟実験
運動会のように、たまたま振り分けられた集団に所属することになった少年たちの振る舞いを対象にして、集団間の敵対関係の発生から解消までのプロセスを観察した古典的な社会心理学の研究があります。1954年の夏に、オクラホマのキャンプ場に11歳と12歳の少年たちを集めて行われました。キャンプ場の名前が泥棒洞窟(The Robbers Cave)であったことから、この研究は「泥棒洞窟実験(The Robbers Cave Experiment)」とも呼ばれます。
この実験は、3つのフェーズに分かれています。まず第1フェーズでは、少年たちは2つの集団(ラトラーズとイーグルス)に分けられました。ただし、自分たちの集団以外にもう1つ集団が存在していることは知らされません。もう一方の集団の存在を知らない状態で、集団内の少年たちはさまざまな活動を通してお互いの親睦を深めていきます。
第2フェーズでは、自分たちの集団以外にもう1つ集団が存在することを知らされます。そして、野球などの試合を通して、相手集団に対するライバル心が強まっていきます。野球の試合中に相手をののしる発言も出ました。集団同士の敵対関係はどんどんエスカレートし、相手集団が作成した「団旗」を夜中に燃やすといった危険な行為にまで及びました。
ここで興味深いのは、第1フェーズでは暴力的とされ集団内での評判が悪かったメンバーが、第2フェーズでは頼もしい「仲間」として称賛をえるようになったことです。テレビ版ドラえもんだと乱暴者として嫌われるジャイアンが、映画版になるとなぜか頼もしく感じてしまうのと似ています。戦う相手がいると、同じような振る舞いをしていても周囲からの評価が変わることがあるのです。
第3フェーズでは、敵対関係を緩和するために、複数のイベントが用意されました。まずは食事などの活動を通して、お互いがやりとりする機会を作りました。しかし残念ながら、食べ物や食器を投げつけ合う悲惨な結果が待っていました。そこで、2つの集団が協力しあわないと解決できないような問題を発生させ、それに対処させました。たとえば、溝にはまって動けなくなった自動車を協力して持ち上げたり、水を手に入れるために、故障した機械を直したりするといった活動です。すると、少しずつ、お互いのグループメンバーの関係性が友好的なものに変化し、第2フェーズで生まれた敵対関係が改善したのです。
この研究の結果は、たまたまふり分けられた集団にもかかわらず、同じ集団(内集団)のメンバーには仲間意識を、異なる集団(外集団)のメンバーには敵対感情を持ちやすいこと、そして、お互いの関係性を改善するには、両方の集団が協力しないと解決できないような、上位目標の設定が有効であるということを示しています。
「上位目標」という視点は、私たちの実生活はもちろん、より大きな枠組みにおける協力関係においても重要な示唆を与えてくれます。たとえば環境問題について、複数の国や地域が共同で解決を試みるような活動(二酸化炭素排出量の削減目標など)は、その目標がお互いにとって重要である限り、これまで敵対的だった国家間の関係を幾分良好なものにするきっかけとなるかもしれません。残念ながら、いつでもどこでも、この上位目標がうまく機能するとは限りませんが、1つの手段として頭の中に入れておくと役に立つこともあるでしょう。
上位目標の他にも、集団による対立を避ける方法はいくつか考えられます。中でも、そもそも敵対関係が生じにくいようなシステムを用意する、という視点は重要です。運動会であれば、赤と白だけではなく、青などの別の色を加えて3チームとし、2つの集団による対決姿勢が鮮明にならないようにする学校もあるようです。私の出身高校では6つの色(赤、白、緑、紫、黄、青)に分かれていましたが、あらためて考えてみると、勝敗についてはほとんど気にならない、良いシステムでした(高校生であれば、運動会の勝敗でつかみ合いのケンカがおこることもないでしょうが)。世界的に人気が高い、スマートフォンで楽しむポケモンGOというゲームも、プレイヤーは赤、青、黄の3チームに分かれてプレイします。これがもし2チームだったら、ゲーム以外の場所でプレイヤー同士の軋轢を生みやすい状況になっていたかもしれませんね。
社会の中のさまざまな集団
泥棒洞窟実験や運動会の赤組と白組のように、たまたま振り分けられた集団以外にも、社会にはたくさんの集団が存在します。ここで「集団」について少し整理しておきましょう。
集団には、ひとりひとりが識別可能な、比較的小さなサイズのものから、プロスポーツの観客集団のような大きなサイズまで、さまざまあります。社会心理学で「集団」を対象として研究が始まった頃には、同じ目標に向かう、相互依存関係にある、比較的少人数で構成された人々の集まりを「集団(group)」と定義していました。そして、集団の生産性を高めるために必要な条件や、集団内での円滑なコミュニケーションを促進する要因について検討がなされました。「チーム」といった言葉で表現されるような人の集まりを想像するとわかりやすいでしょう。
しかしその後、人はたとえ相互に依存し合ったり、共通の目標を持っていたりせずとも、特定の「カテゴリー」を共有していさえすれば、そのカテゴリーに基づく集団の一員であると自らを認識する傾向があるのではないかとの議論が生まれました。実際、私たちはさまざまなカテゴリーに基づいて自分を特定の集団の一員とみなし、同じ集団に分類される、まったくの赤の他人に対してでさえ一方的に仲間とみなすことがあります。同じ中学校や高校の卒業生というだけで、直接交流する機会が今後なさそうな相手でも妙に親近感がわき、「仲間」と認識した経験がある人もいるのではないでしょうか。
同じカテゴリーを持つ人たちで構成された集団の誰かが名声を得たら、自分まで何かを成し遂げたかのような気分になることもあります。春と夏の全国高校野球などはその典型と言えるでしょう。母校のチームを多くの卒業生が熱心に応援し、勝敗に一喜一憂する姿はテレビの中継やニュース番組で何度も見かけたものです。
特定の集団に所属するために自分が費やした時間や努力が大きいほど、その集団への帰属意識や、所属メンバーに対する仲間意識は強まります。同時に、なにかひどい目にあわされたわけでもなく、面識すらない相手に対しても、自分と異なるカテゴリーの集団に所属する人に対しては、「私たち」とは違う「あの人たち」と認識し、時に敵対感情を抱くような傾向があることが理解され始めました。そしてこのような「集団間の関係性」という文脈における、人のさまざまな感情状態や態度、意思決定過程などを対象とした研究が整理、検討できるようになりました。
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