どんな状態の命でも、等しく価値があるから、破壊してもいいなんていえない――私が専門にしている生命倫理の分野では、いろいろな問題とのかかわりで主張されることの少なくない意見である。
たとえば、いわゆる安楽死の問題。重い病気や障害のある人が、こんな状態ではもう生きていたくない、一思いに毒物を注射して殺してほしいといっている。そんなとき、患者の求めに応じて、医師が毒物注射をすることは許されるだろうか。
あるいは、選択的中絶。生まれてくる前の赤ちゃんに、遺伝的な病気や障害のあることが分かったら、妊娠を中絶してもよいだろうか。――たとえばこれらの問題について、いやそれはダメだ、という立場から出てくる意見である。
さてしかし、この意見にたいしては、次のように批判する人がいる。――あなたは、どんな状態の命でも、と言うが、そう言うあなたは、鶏や豚を食べないのか。鶏や豚を食べるのに、どんな命にも同じだけ価値があるとか、だから破壊してはならないなんて、そんな風に主張するのはおかしくないか。
もちろん、こんな批判を初めて聞いたら、ほとんどの人はびっくりするだろう。
いやいや、私が言っているのは、あくまで人間の命のことで、鶏や豚の話はしていない。と、そう反応したくなるかもしれない。だいたい、深刻な病気や障害の話をしているときに、鶏や豚の話を持ち出すのは、不謹慎ではないか。そんな風に感じる人があってもおかしくない。
ところが、今回の本で、著者の立岩は、この批判をあくまでまじめに取り上げている。じっくり検討して、反論する内容だ。
実際、これはとても重要な批判である。(ときと場合によってこの話をするのが不謹慎なのは事実だとしても。)批判の要点のひとつは、次の問いかけにある。つまり、人の命に破壊してはならないといえるだけの価値があるのは、なぜなのか。その根拠はどこにあるのか。また、根拠をはっきりさせたときに、本当に安楽死や中絶が常に決して許されないといえるのか。
人によっては、ただそれが人間の命であるというだけで十分だ、人殺しがダメな理由をそれ以上説明する必要はない、と思うかもしれない。しかし、挙げようと思えば、他にも理由を挙げられる。たとえば、その人の幸せを奪うから。あるいは、その人に恐怖や苦しみを与えるから。だから人殺しはダメなんだ、と言われたら、そのほうが説得力があるかもしれない。
もちろん、そんな風に理由を挙げるとすると、安楽死や中絶が常にダメとは言えなくなるかもしれない。本人が死にたいと言っているなら、安楽死は、幸せを奪ったり、恐怖を与えたりしないと言えるかもしれない。中絶される胎児も、破壊されるときに恐怖を覚えたりはしないかもしれない。
さらに、問題が幸せや苦しみにあるのだとしたら、むしろ人間以外の動物についても、殺してはならないことがある、と考えなくてはならなくなりそうだ。動物も、恐怖したり、苦しんだりすることは明らかだからである。もしかしたら、人間の胎児よりも豚のほうが、殺されることをより強く恐怖するかもしれない。だとしたら、選択的中絶に反対するより、むしろ、豚を食べることに反対するべきではないだろうか。
本書は、安楽死や中絶のような医療の倫理だけでなく、工場畜産や動物実験や捕鯨など動物の倫理の問題に関心がある人にも読んでもらいたい本である。ふたつの問題が実はつながっていて、一方について満足のいく答えを出そうとすると、他方についても同時に考えなければならないことを、教えてくれる。
立岩は、人と動物は違うという。食べるために動物を殺すことは許されるが、病気や障害がある人を安楽死で死なせることは許されないと主張する。
主張の根拠にあるのは、人はだれでも人から生まれてくるが、他の動物は人から生まれてこない、という事実であるという(第2章)。立岩の答えがいろんな問題を同時に満足のいく仕方で解決してくれるのか。ここに注目しながら読み進めたい。