単行本

日本を歩き、地域それぞれの〈近代〉を描いた歴史紀行
猪木武徳『地霊を訪ねる』の刊行に寄せて

PR誌「ちくま」で2019~2020年に連載されていた猪木武徳さんの連載『地霊を訪ねる』が単行本になりました。碩学の著者が、近代史のなかで忘れられた土地を歩き、そこに生きた人びとの声にならない声に耳をかたむける歴史エッセイです。日本全国の温泉案内としても楽しめるたのしい1冊。連載時から熱心な読者であった木下彰さんに、本書の紹介文をご寄稿いただきました。

 本誌『ちくま』に連載されていた「地霊を訪ねる」を、一読者として毎月楽しく拝読していました。抑制されたユーモアの精神、平明に書かれた文章、ときおり垣間見える現代日本への批評性。とりわけ現代日本の短期的な「成果主義」の風潮に対する猪木先生の厳しい眼差しにふれると、背筋がぴんと伸び襟を正す思いでした。
 わたしは、一九五〇年生まれの元サラリーマンです。ながらく三菱重工業の営業マンとして、製鉄所向けの高炉ガス焚き発電設備や鉱山機械の一部である排ガスボイラー設備を担当していました。海外営業をしていたこともあります。
 今から四十年以上も昔の話ですが、インドネシアに長期出張する機会を得ました。現地に発電所を建設する、その工事現場に派遣されたのです。そのときに、インドネシア政府の若手官僚と親しく交流し、自国のあるべき経済成長の姿を議論したことがあります。「石油生産大国であることを誇るより、裸足の国民を減らしたい」という彼らの熱い言葉に胸を衝かれ、遅ればせながら経済学を学ぼうと思い、以後、猪木先生の著作を購入するようになりました。
 本書は、日本の近代化を支えてきた先人の足跡と見識に光を当てた重厚な紀行文です。近代のみならず、さかのぼって江戸期や中世さらには古代の歴史にも考察をくわえ、鉱山開発および運営の苦闘の歴史に光をあてています。単なる金属加工技術の近代産業史にとどまらず、近代以前からの連続性にまで射程がおよび、金属素材の探訪精錬に尽力した先人の背後にある洋学考究など、日本人の教育に対する公平で真摯な姿勢も浮かびあがらせています。その意味で、本書にそなわる鉱山跡の踏査という「着眼」は、多彩な日本産業史の「展望」を読者に示すことに成功していると思います。
 ユーモアとウイットに満ちた本書ですが、戊辰戦争・西南戦争を視野に入れた、敗者への配慮と礼節をゆるがせにしない「ノーブルな姿勢」が一貫して維持されています。連載第三回「米沢から福島市を通り半田銀山跡を歩く」において、奥羽越三十一列藩同盟についての言及がありました。この同盟は、戊辰戦争にさいして東北諸藩が新政府側に対抗するために結ばれた軍事同盟で、仙台藩と会津藩は同盟の延長線上に「東日本政府」を樹立しようとしていたとの論もあるそうです。
 わたしは仙台で育ったので、東北の幕末維新には哀切を感じて育ちました。本連載の、戊辰戦争の敗者に対する猪木先生の丁重な筆致に感銘を受け、猪木先生にファンレターを毎月出すに至った次第です。すこし長くなりますが、その箇所を引用します。

 

戊辰戦争には藩それぞれに複雑な事情があった。幕末維新と いうことになると、どうしても薩長土肥の雄藩、江戸、京都、大坂の三都の動静に関心が集まる。政治的動きが語られてきた地域であるから当然ではあろう。しかし広く日本を旅すると、それぞれの地域に、まさにそれぞれの幕末維新があったと感じる。いつの時代の政治にも、身を裂かれるような立場に置かれる人々がいるのだ。

 

 小学六年の修学旅行で会津若松に出向いたおりに、戊辰戦争で主君のために自決した十六~十七歳の少年を祀る「白虎隊十九士の墓」を訪れました。引率してくださったガイドの方の、「仙台人は裏切ったが、会津人は全員最後まで戦った」との説明を聞き、クラスメイト一同が水を打ったように静まり返って頭を垂れたことをよく覚えています。
 忘れられがちな「それぞれの幕末維新」に目を向け、「もうひとつの日本近代史」の可能性を考えさせてくれる書物でありながら、多彩な読書案内、簡素な温泉案内、心あたたまる旧友交歓の記録としても魅力的で、読み手によっていろいろな読み方・楽しみ方ができる一冊です。

関連書籍