棄てられた鬼子のパワー
体の形状に異常を持って生まれた子どもは「鬼子(おにご)」と呼ばれていた。鬼子と呼ばれた障害児について見ていきたい。
藤原頼長の日記『台記』天養元年(一一四四)五月二〇日条に、左近衛大将源雅定からの伝聞に基づく鬼子の出生の噂が記録されている。
これは、あくまでも頼長が耳にした噂話であり、このまますべてを事実として受け取ることはできない。ただし、都からほど近い近江国(現在の滋賀県)の大津で体の形状に異常のある赤子が生まれ、棄てられたことは事実なのだろう。『台記』の記事からは、鬼子が健常児には持ち得ない不可思議かつ強力なパワーを持っていると考えられていたこと、さらには得体の知れない恐ろしいものとして認識されていたことが分かる。
怪異とされた鬼子の誕生
体の形状に異常のある子の誕生は、たびたび歴史書にも記された。なぜ歴史書に記されたかというと、このような子の誕生は国家として重大な意味を持つと考えられたからである。たとえば歴史書『百練抄』長寛三年(一一六五)四月一二日条には、次のように記録されている。
「異児(いじ)」は鬼子と同義である。この「異児」は、親によって河原に棄てられたのだろう。「諸道」とは、経書(儒教の基本的な教えを記した書物)に通じた明経道や法律に通じた明法道などを指すと考えられる。これらに所属する官人に日本と中国の先例を調べさせ、報告させている点も興味深い。
そもそも中国では、為政者である皇帝の失政を戒めるために天が怪異や災害を起こす、とする思想があった。我が国では、王の失政を戒める天については浸透しなかったものの、体の形状に異常を持つ子が誕生すると怪異であると見なしていた。たとえば、東晋時代の学者干宝による『捜神記き』には、体の形状に異常を持って生まれた子どもの事例が非常に多く記されている。このような子どもの出生は、怪異として認識され、政治や社会の混乱が起こる予兆であると解釈されていた。日本でも、中国思想の影響のもと、形状に異常のある子が誕生すると、怪異であると見なされた。都から遠く離れた地方でも、このような子が誕生すると、国司から朝廷への報告がなされていた。ちなみに、人間のみならず、動物の子の誕生の場合も同様であった。
我が国の鬼子の事例を見てみると、胴体が一つ、頭が二つ、手が四本であることが多い。たとえば、中山忠親の日記『山槐記』治承三年(一一七九)一一月九日条には、五条河原に「異児」の頭が一つ、手足がそれぞれ四本あったことについて、明経博士の清原頼業が「和漢」の先例を調べたところ、すべて頭が二つある例であり、一つの頭に多くの手足が付いているのは初めてである、とされており、帝の崩御や謀反、大臣薨去(薨去は、皇族や三位以上の人が死去するときに使う語)などの前兆である、と記録されている。
一つの体に二つの頭がつく事例ばかりであることは、中国の書物にこのような障害児の誕生が非常に多く記録されていることと関係しているのだろう。歴史書『漢書』の中でも、災異とその解釈に関する「五行志」には、『京房易伝』に基づいて、首が二つあるのは上が一つにまとまっていないということ、手が多いのは任用された者が邪悪だということだとする解釈が記されている。中国の書物の影響のもと、このような特徴を持つ子どもの出生への恐れが広がり、障害児が誕生するとその実態はともかくとして、どんどん話に尾ひれが付き、都にいる貴族の耳に入る頃には、体が一つ、頭が二つ、手が四本といった特徴が伝えられたのではないだろうか。
棄てられた鬼子
体の形状の異常を理由に赤子が棄てられることはしばしばあった(大喜直彦「中世の捨子」)。左大臣三条実房の日記『愚昧記』永万二年(一一六六)七月一九日条にも、鬼子についての伝聞が次のように書きとどめられている。
美福門は、大内裏の門のうちの一つであり、二条大路に面していた(第一章三六頁の「平安京大内裏図」を参照)。多くの人通りがあるので、誰かに拾われ育ててもらうよう期待され、棄てられたのだろうか。棄児は、しばしば大寺院や貴族の邸宅の前に棄てられることがあった。『愚昧記』の記事も、前の『台記』と同様、伝聞によるものなので、鬼子の容貌についてどの程度正確に記されているのかは分からない。そうではあるものの、この記事からも、体の形に異常を持つ子どもの出生は凶事であり、さらには「大恠」、すなわち不吉なことが起こる前兆だと捉えられ、恐れられたことが分かる。これらからは、体の形状の異常について、病気の一つであるとする認識は読みとれない。凶事でありその後の不吉な事柄の兆しとされた鬼子は、棄てて良い子ども、もしくは棄てるべき子どもだったのだろう。
一二世紀に成立した『東山し往来』にも、棄児に関する記述がある。『東山往来』は、京都東山の僧と俗人の檀越との往復書簡からなる往来物もの(手紙文の模範文例集)である。『東山往来』二三条には、ある雑使し女(朝廷や院御所などで雑役や走り使い、随行にあたった最下級の女性)が歯を生やした男児を産んだところ、近隣の者たちがこれを怪しみ、「この児は不吉だ。歯を生やしているのは鬼だ」と言って山野に埋めて殺すことを勧められたがどうすべきかを問う書簡がある。それへの返信では、歯を生やして生まれてきた子は、才知に長けた証であり害はない、と強調されている。生まれた時に歯が生えていた立派な僧や天皇の事例をあげた上で、近年の人は「聞学」が浅いので「異相そ」を恐れるのだとして、その子を養って僧にするように、と勧めている。
『東山往来』からは、生まれてきた赤子に歯が生えているだけでも鬼であるとして棄てられていたことが分かる。「不吉」な子を埋めて殺せば、「不吉」はある程度解消する、と考えられたために棄てられたのだろう。
記録の中には、しばしば棄児に関するものが見られる。棄て場所は、路のほか、橋や河原、山などであり、それらはこの世と異界の境界の場だといって良い。棄児は、多くの場合、助けられることはなくそのまま死を迎える。現世から離れる者を送りだす場として、境界の意味を持つ場所がふさわしかったのだろう。
体の形状に異常を持つ子どもが「鬼子」と表現されている点については、着目すべきであろう。とりわけ、『愚昧記』の記事では、産まれた赤子には角が生えている、とされている。これは鬼が角を生やす姿をしているという認識がある程度共有されていたために、このように語られたのだろうか。あるいは、実際に赤子の額に腫れがあり、それが角だと見なされた可能性もある。見かけが健常者とは異なることに対する畏怖があり、健常者にはとても太刀打ちできない超人的な力をもってして害を及ぼしてくることを危惧されたのだろう。
体の形状に異常を持ってこの世に生を享けた子を鬼子と呼ぶことについて、現代の社会に生きる人間としては到底受け入れることはできない。しかし、だからといって、このような歴史的事実に決して目を背けてはいけない。こうした事実をこそ、私たちは心に刻んでおく必要があるのではないだろうか。
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