単行本

暗号の楽園
『休館日の彼女たち』について

デビュー作『空芯手帳』が日本にとどまらず海外でも話題沸騰の八木詠美さんの待望の長編第2作がついに刊行! ホラウチリカが大学の恩師から紹介された、古代ローマのヴィーナス像のラテン語での話し相手という奇妙なアルバイト。 依頼人である博物館の支配人・ハシバミを交えた三角関係(?)は意外な方向へ転がっていく―― 有機物と無機物の境界さえ越えていく無敵のシスターフッド小説の創作秘話をお書きいただきました。

 子どものころの交換日記を見つけた。チェック柄のB5のリングノート。嬉々として開く。が、何が書いてあるのかわからない。幼い字が読めないのではない、インクが色褪せてしまったのでもない。すべて暗号で書かれていた。
 ピンクやブルーなどランダムに色が変化するペンの跡を見ながら(そのとき流行していた〝マーブルペン〟のことはなぜかすぐに思い出せる)、母音と子音の組み合わせに対応していることに気づく。アルファベットとセットで1~5の数字が並んでいる。ちょうど小学校でローマ字を習ったころだった。きっと1がア段、2がイ段なのだろう。しかし子音を表すアルファベットの順番は単純にカ行はa、サ行はbというわけではないらしく、ノートには「k」や「m」も頻出し、「ha」などアルファベットが連続する箇所もある。途中で解読をあきらめる。けれどとにかく楽しそうだと思う。楽しさは乱反射する。自分たちだけの暗号が点滅する小さな楽園のまぶしさへと、さびしさへと。
『休館日の彼女たち』の主人公のホラウチリカは、博物館のヴィーナス彫刻の話し相手のアルバイトを紹介される。ヴィーナスは古代ローマ生まれのため、彼女たちはラテン語で話す。学術用語やカトリックの世界では公用語としていまだに強い影響力を持ち、「ウイルス」や「エトセトラ」など今日の日本の語彙にも根を張りつつも、多くの人の口もとからは絶えてしまった、いわば暗号のような言葉で、彼女たちは交流する。彫刻にまつ毛がない理由を考え、写真集をめくり世界を旅する。自分にしか見えない黄色のレインコートに包まれ、誰も傷つけず傷つけられない世界にこもっていた主人公は、少しずつヴィーナスに惹かれる。アルバイトのシフトのある休館日の博物館は、彼女にとってささやかな楽園となる。
 書きながら、私は嬉しくなる。少しずつ明るくなる主人公の様子を見て、ずっとこうしていられればいいのにと思う。けれど同時に知っている。誰かを愛することはいつだって傷つくことのはじまりとなる。
 物語の後半、主人公はヴィーナスとの壁に戸惑い、そして彼女の置かれている環境に目を向ける。台座の上で見られるということ、美しくあり続けるために管理されるということ、二〇〇〇年生きているということ。そしてヴィーナスと学芸員の関係を知った主人公は、再び自分だけの世界に閉じこもるようになる。
 私は思い出そうとする。交換日記の終わりを。クラスの友達との交換日記だった。私はその子の家によく自転車で遊びに行った。マンション住まいの私とちがい、その子の家は広い一軒家で自分の部屋を持っていた。細い階段で二階に上がり、奥にあるのがその子の部屋だった。私たちはそこで名前のない遊びに興じ、そして暗号が生まれた。自分たちだけの文字を持つ私たちは無敵だと思っていた。なのにどうしてだろう、私は今東京で会社員をしながら小説を書いていて、彼女がどうしているのか知らない。やりとりの間隔がだんだんと開いていったこのノートを、どんなふうに眺めていたのかも。
 暗号は人を結びつけ、そして少しさびしくさせる。言葉は他者を連れてくる。距離を埋めるために話すのに、話しながら距離を知る。皮膚により隔てられた小さな宇宙との距離を。「バベルの塔」に怒って人々の言葉をばらばらにした神さまは、意図としては理解できるけどちょっと大げさなんじゃないかとも思う。同じ言葉を使っていても、私たちはこんなにもわかり合えない。
 けれど物語の最後で主人公は、わかり合えない中で何かを選ぶ。黄色のレインコートを着て、再び博物館の展示室へと向かう。そのとき展示室の女神たちもまた自分たちの言葉で語り、あるいは叫び始める。彼女たちの後ろ姿を見て、私はそっと物語を閉じる。
 そういえば交換日記は、数日後に思い出したときはどこかに消えていた。

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