単行本

テラ・インコグニタへ旅立つ前にテラフォーミング
『再読だけが創造的な読書術である』書評

既知と未知のネットワークを創造的に発展させる知的技術としての「再読」を提唱する話題の書『再読だけが創造的な読書術である』。本書を気鋭の暗黒批評家、後藤護さん(『黒人音楽史』『ゴシック・カルチャー入門』)に読み解いていただきました。(PR誌「ちくま」4月号より転載)

 在野や独学の書き手に注目が集まっている。なかでも山本貴光、読書猿、そしてこの永田希は私の脳内では同一フォルダに収まった「スーパー在野人」の令和御三家である。みな万巻の書を繙いた博識家(ポリマス)ではあるのだが、ポリハラ(情報過多で読者を困惑させるポリマス・ハラスメントの略。私の造語)とは無縁の書き手たちであり、読書とは何か、学ぶとは何かを真摯に熟考し、穏やかで平易な文体でありながらハードコアなウィズダムを与えてくれる現代の賢者たちだ。

 さてデビュー作『積読こそが完全な読書術である』で、ネガティヴな印象を持たれがちな積読本の山を新陳代謝と整理によって絶えず循環する「ビオトープ」として新たに読み替えた永田は、姉妹編となる本書で「再読」をテーマに据えた。根底にあるのはSNSの発展に伴う情報の濁流、読書のファスト化への危機意識である。確かにSNSの登場は、読書という密やかな自己陶冶の営みを、読了ツイートや献本ツイートに代表される他者へ見せつけるアピールへと変貌させ、書物のアウラや自分らしさの喪失に日々拍車をかけている。こうした「目立ち(バズり)たい病」への良薬として、永田医師はトリスタン・ガルシアの『激しい生』を読者に処方する。ガルシアによれば「強さ=激しさ」ばかりが近代以降求められた結果、疲弊、燃え尽き(バーンアウト)に陥り、最後は鬱状態に至るというのだ。これを読書論に援用する永田は、「強さ=激しさ」としての初読体験にばかり価値を置くことに警鐘を鳴らし、「初読時の印象の鮮烈さを相対化し、書かれていることにフラットに向き合う」再読をむしろ推奨する。再読は「強さ=激しさ」信仰への防波堤、情報氾濫社会において己と向き合う倫理となるのである。

 また、「ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができる」(ナボコフ)といった再読をめぐる逆説、スフィンクスの謎かけが頻出するのもこの本の特徴だろう。例えば未知のジャンルに手を出す前には、既知と思われる蔵書を再読せよ、と一見迂遠な逆説が提示される。要するに、再読によって自らの知のネットワークを点検・整理し、まったく知らない別のネットワークにアクセスする回路を見つける下準備が必要なのだという。具体的に言うと、西洋史を勉強してきた人間が、いきなり東洋美術の本を読んでも歯が立たず迷宮に踏み迷うばかりなので、家の中にそういえばフェノロサの本(東洋建築をめでた西洋人の本)あったなと蔵書環境を思い出して再読し、自分の知見を一度棚卸し、再編成するのである。その際の再読を永田は「テラフォーミング」というメタファーで表現している。テラとは地球のことで、火星のような未知の惑星に暮らすために、その惑星を地球環境に近づけ整備していく技術だ。そのためには火星にいきなり旅立つ前に、「急がば回れ」と地球とは一体いかなる惑星なのかを知る必要がある。つまり再読は倫理のみならず「己を知れば百戦危うからず」の兵法でもあったのだ。

 永田の提示する再読=テラフォーミングの対極にあると感じたのが、テラ・インコグニタ(未知の大地)への冒険、迷宮でさまようことをむしろ愉しんでいる印象の荒俣宏のような多読家の系譜である。テラフォーミングは未知(カオス)をむりなく既知(ノモス)の領域に取り込んでいく読書のメソッドだが、メソッドの語源がギリシア語でメトドス、もともと「道に沿ってゆく」を意味したように、「未知」を区画整理された「道」に均していく作業は、冒険からは遠い。その意味で、道なき道をいく、方法があるのかないのか判然としないアラマタ読書術は、好奇心と驚異に憑かれた冒険家の精神があり蠱惑的ではある。しかしかなりの読み巧者でもなければ真似することは危険だろう。やはりテラ・インコグニタへ旅立つ前には、再読=テラフォーミングは必要なのだ。



読書猿氏推薦
「再読せよ。一生かけて読む本に、あなたはすでに出会っている」

本を繰り返し開くことは、 自分自身と向き合うことである。
「多読という信仰」を相対化し、「自分ならではの時間」を生きる読書論!
永田希『再読だけが創造的な読書術である

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